自由の刑/思い出せない昼食、忘れられない会話
目次
自由の刑——サルトルが説いた、もう一つの自由
前回 「自由からの逃走」 について書きました。フロムの「からの自由は簡単だけど、への自由は難しい」という捉え方はわかりやすいと思います。これを別の切り口で考えてみましょう。今回は 「自由の刑」 です。
サルトルは若くしてスター哲学者になりました。彼の講演会に人が殺到してサルトル自身はそれを知らなくて「なんか人が多くて講演に遅れるじゃん」みたいなエピソードが残っています。第二次世界大戦後の彼の考え方が、今なら「バズ」に相当するんだろうとは思いますが、桁違いのエネルギーで広がっていったことを想像しています。
自分のレターにも何度も登場している哲学者・九鬼周造は1920年代、ハイデルベルク大学などでハインリヒ・リッケルト1やマルティン・ハイデッガー2に学び、その後パリでアンリ・ベルクソン3に会い、のちに哲学者となる若き日のジャン=ポール・サルトルからフランス語の家庭教師を受けました。その時、ドイツ現代哲学の動向をサルトルに伝えたとされています。後に九鬼がサルトルの “existentialisme” を「実存主義」と訳し、この言葉を日本に定着させます。教え教えられ、ぐるぐるっと言葉が世界を巡る——不思議な縁だなと思います。
今回参考にしたエッセイ(Skye C Cleary著、Aeon)は、サルトルが1945年に行った講演「実存主義はヒューマニズムである」を再検証する内容です。サルトル自身は後年、この講演が思想を単純化しすぎた、と複雑な思いを抱いていました。
背景
ヨーロッパで第二次世界大戦が終結したのが1945年5月8日でした。その頃のヨーロッパではニヒリズム(虚無感)が社会を支配し、狡猾さがないと生きていけない状況に、人々は息が詰まる思いをしていました。1945年10月29日、パリのクラブ・マントナンで、サルトルの講演が企画されると人々が殺到。15人が倒れる騒ぎとなりました。

シャンゼリゼ周辺にあるパリのクラブの写真を元にして、マントナンの興奮・熱狂を少々感じたくAIに描いてもらいました。戦後の道徳的空白の中、大衆がニヒリズムに代わるなにかを渇望していたことが人気の理由とされています。
講演の内容はこうでした
- 「実存は本質に先立つ」— 人はあらかじめ決まった本質(本性)を持たずに生まれ、自分で自分を作っていくしかない、その行為の総和が人間だ、という前提を定義する。
- ゆえに人間は自己を作る責任を負う。「人間は自由の刑に処せられている」という比喩的な表現をした。
- 一つの選択が自分だけでなく人類全体へ及んでしまうと気づいた瞬間それが苦悩になる。
- 価値を発明(何かを選択)したら責任は自分にあって、神の存在とは関係がない。いわば神からは「見捨てられ」の状態。
- 有名な学生の相談「母を助けるかレジスタンスに参加するか」のエピソードを述べ、既存の倫理体系では答えが出せず、自分で発明する(選択する)しかないと説く。
- 道徳的選択は芸術創作(発明)に似ている、という比喩。選択→自己創造。
- 「悪意」には2つある、すなわち、「臆病者」(選択肢がないと言い訳する人)と「卑劣漢」(自分には社会のルールが適用されないと傍若無人に振る舞う人)。
- 以上のように自由に行動することは大変である。それを面倒くさがったり、影響を考えずに自分中心に行動してしまうこと、それは「絶望」と同じだと指摘。
この内容は、「自己責任」「自己創造」という、現代では一般的になっている概念を中心にしており、わかりやすく、大変好意的に受け入れられました。
批判的検討
- 「人間は行為の総和にすぎない」という主張は、幼少期の環境や能力、種々の原因により抑圧されている状況において、的外れであるという批判があります。
- サルトルの生涯のパートナーであるボーヴォワール4の哲学は、女性としての視点から、貧困や抑圧など具体的な社会構造への配慮がありました。しかしサルトルにはない。
- 最大の弱点として、カントの定言命法5のような根拠が不十分な点が指摘されています。人間には本質はない、と定義したことによって、例えば独裁者の暴論も正当化してしまう危険性があるのです。ただしサルトルも善悪を放棄したわけではなく、自己欺瞞を許さない「真摯さ」を一つの基準にはしていました。もっともそれは「どう選ぶか」の姿勢を問うもので、「何を選ぶべきか」の内容までは決められない。独裁者の暴論を封じきれない弱さは残るのです。
解説
- 前回ご紹介したエーリッヒ・フロムとは「自由」「ヒューマニズム」という共通の言葉を使いながらも、中身はかなり違います。
- 一番大きな違いはサルトルが個人の意思決定を扱っているように見えることです。そして人間には本質はないと言っていること。一方でエーリッヒ・フロムには理想的な人間像があるように思えます。カントにもあります。
- 個人の意思決定を扱うことで、自己責任のような考えが強くなり、弱者に対する配慮がないのが特徴です。晩年はサルトルも、育ち方によって選択の自由が狭められている、と考えは変化しています。
- 自由の結果をイメージしなさいという考え方は大事です。それを苦悩とサルトルは呼んでいるけれど、わかりやすい。
- 自己創造、も強いメッセージです。
- 傍観は良くない、とサルトルは言いました。政治参加を積極的にしたのもそういう理由です。「傍観はダメ、アクティブな自由」はわかりやすい訴え方で、現代でも良く使われています。
- サルトルはクラブ・マントナンの熱狂と同じ1945年10月に『レ・タン・モデルヌ』という雑誌を創刊しています。これは文筆で政治参加をする宣言であって、彼自身は「左翼」と称し、マルクス主義に傾倒していましたが、フランスのあるいは世界の知的スターになりました。
- サルトルが「人間には本性(human nature)は存在せず、人間は選択によって自己を発明する」と主張したのに対して、フロムは正反対で「人間には満たされるべき普遍的な心理的欲求(関係性、超越、根源性、アイデンティティ、方向づけの枠組みなど)があり、それが人間の本性だ」とします。結果として、彼の自由とは、「人を愛し、仕事をして自己実現をしましょう」という事でした。サルトルは意思の強い人々に向いている、フロムはもっと広い人々へ向いている、という風に自分は感じます。
医学部で教えるとすればこうなる
この「自由」論は、病院という小さな社会に当てはめることが出来ます。
- 患者に対しては、フロム的な考えが適応できる。 病気は選択の自由をあらかじめ狭めてしまいます。痛み、不安、経済的制約、情報の非対称——患者はサルトルのいう「まっさらな自由」から選択できません。医療者が出来ることは、選ぶ自由を最大限尊重すること。例えば説明をわかりやすく、十分情報提供する、考える時間を最大に、支えあう関係を強固にする、その上で自己決定権を尊重する。それはフロムの言う「への自由」を患者に提供する作業だと言えます。
- 医療者自身に対しては、サルトルで考える。 「ガイドラインはこうだから」「上がそう言ったから」は、サルトルの言う「臆病者」で、選択肢がないと言い訳する態度に近い。最終的にこの患者にどうするかは、自分の責任で選択せねばならない。真摯な態度に終始すること。サルトル的な厳しさは、医療者自身にマッチします。政治的に動きなさい、と説く部分も実は大切です。
- 責任は集団で負う。 多職種連携が謳われて久しいが、意思決定の輪に患者本人を入れることが要点。責任を一人の医師に集中させず、患者を含めたチームで分散して負う。おそらくAI時代になってもこの考え方は通用する。これはサルトルの「選択は人類全体に及ぶ」を、病院という小さな社会に縮めて適応しています。
- ただし「卑劣漢」への備えも要る。 自分には普遍的な、あるいは共通のルールが適用されないと振る舞う人々がいます。——偏った考えにこだわる人々、あるいはペイシェント・ハラスメントをする人々も現実にいます。患者は自由を狭められた存在だとして配慮することと、理不尽な要求に線を引くこととは矛盾しません。配慮と線引きを使い分ける訓練が医療従事者には必要です。
思い出せない昼食、忘れられない会話
「昨日の夕食はなんでしたか?」 ときに患者さんを困らせる質問です。 不意をつかれた彼らはしばし黙り込みますが、自分はどうでしょう。もちろん即座には出てこず、昨日の行動を思い出す作業が必要です。 では全く覚えていない時にはどういう場合があるのでしょうか。
昼食を思い出せなかった、ある日
ある日の午後、そんな質問をしながら「僕自身、今日の昼ごはんが思い出せないが、やばいかなあ……」と最初考え、ところが、その日は午前の診療が長引いたからまだ休んでいないじゃん、と気づいたのです。食べていなければ思い出せないのは当たり前。患者さんが食事を思い出せないとき、忘れたと決めつけてはいけない。そもそも食べてすらいない可能性を考慮すべきです。ならば患者さんにはまず「昨晩、夕食は食べましたか」と聞くのが正解、などと納得しました。そんな納得もしかし一瞬で消えさり、仕事に追い立てられていたのです。
夕方診療が終わってカルテを整理していると、「ご飯はどうします?」と聞かれ、「夕食にはまだ早くないですか?」などと言いながら食卓に行ったところで「ああ、昼ごはんだ、食べていなかった」と再度思い出しました。起きていない事は覚える事が難しい 、という小咄です。
全く覚えていない場合、アルコールや麻酔、認知の歪みなどが記憶の入口を邪魔している場合もありますが、その事実がない場合もある、というのがその日の気付きだったのです。幸い自分は記憶の病気ではなさそうですが、そそっかしいのです。記憶力ついでに、その日に患者さんとした会話内容は妙にはっきりと思い出せましたので、ご報告します。
カラフルなものを食べなさい
検診で引っかかったというその男性の妻君から「お腹が出ていて塩分を摂りすぎなので、注意して下さい」と言われていました。典型的なメタボ体型を想像していた僕ですが、実際に会うと清潔感があって、体幹が鍛え上げてあり、アスリートなのではないか、と思ったのです。鍛え上げた人のお腹はしばしば凹んでおらず、出ているな、と思うことすらあります。
エコーの結果も同様で、脂肪肝がありませんでした。
「今のところ、こういう生活習慣病に気をつけなさいと指導せねばならない印象はありません。ただし妻君からは塩分を控えるよう指導してくれとお願いされております。しかし相当量の運動をするようにも見えます。例えば1000mLほど汗をかきますと最大3gほど塩が分泌され、その分摂取する必要があります。ラーメンの汁はどうされますか?」 「飲みます」 「それは地球のために?」 「やっぱりフードロスを減らさないと、ということで」 「すばらしい」
清潔感だけでなく、私の「地球?」というツッコミに「フードロス」でボケて下さるコミュニケーション能力もあるようだから、逆にはっきりした証拠でもない限り、考え方を変えるのは難しそうだぞ?アルコールもあんまり飲まなさそうだしなあ肝臓を見る限りは、と思っていたのがもしかしたら口に出ていたかもしれません。
「でも、リモートが終わったら飲むかもしれません。どうしたら」
と会話の助け舟を出してくれました。なるほど、この数年限定でアルコールの量が減っているという側面はあるのか、気遣いのある患者さんだなあと思いながら、
「飲んだら、完全に代謝されて体から抜けるまで待てばいいです。1回飲むごとに2、3日空けるなら、栄養と粘膜のロスを除けば、ほとんど影響はないはずです」 「その栄養とは」
ほとんどの人々が聞き流すであろう「栄養と粘膜のロスを除けば」という条件を聞き逃さないあたりも一流です。良い質問が即座に返ってきました。
「ビタミンB群が特にアルコール代謝で消費される栄養素です。これが不足すると脳に良くありません。抗酸化物質も消費されます。なお、粘膜のロスとは食道と胃粘膜の障害を指すんですが、それを防ぐには、単純にアルコールを薄めることが大事です」 「抗酸化物質って、なんですか」 「一般的には、カラフルなものが多いです」 「なんでカラフルなんですか」 「抗酸化物質というのは、要するに自分自身が酸化されやすい物質のことを指します。自分が身代わりに酸化されて、周りの酸化を防いでくれ、結果、細胞が守られる。で、酸化されたものって、たいてい色を失うでしょう。燃える、も酸化だし。だからカラフルな存在は『俺はまだ酸化されていない』とアピールしている。コーヒーみたいな例外もありますけどね、あれはクロロゲン酸というポリフェノールなので色は地味です。とにかくふだんはカラフルなものを食べておけばOK、と説明しています」 「わかりやすい」 「でしょう。ただ、わかりやすい話には必ず若干の嘘が含まれています。カラフルなキノコとかカエルなど、毒もあります。食べて死なないでください」 「わかりました」 「大量にあって、かつ鮮やかな色のもの、と定義すればいいかもしれない」 「そもそも、どうして抗酸化物質がいいんですか」 「僕が感銘を受けた話があって。日本アルプスを縦断する山岳レースがあるでしょう」 「ああ、ありますね」 「あれで優勝した選手が、レース中かなり頻繁に大麦若葉を飲んでたんですよ」 「へえ」 「スポンサーの商品名を言ってましたけど、中身は大麦若葉です。つまり青汁をずっと飲んで、その抗酸化作用でパフォーマンスの低下を抑えている、と僕は理解した」 「なるほど」 「山岳レースや100kmマラソンを完遂するには消耗からの回復を常に行わねば難しい。そのトップランナーが使うのが抗酸化物質だというのは、この物質を理解する助けになるでしょう。元に戻す、くらいの意味だと思ってください」 「了解しました」 「ただ、物質の性質を間違えると大変です。有名な抗酸化物質にビタミンEがあるんですが、電子タバコにビタミンEを入れた企業があるんですよ、アメリカで」 「へえ」 「たぶん良かれと思ったんだと思う。タバコを中和する、みたいな発想で」 「なるほど」 「でも、若者がたくさん死んだ。EVALIという病気で」 「え」 「ビタミンEは油です。そして油を肺に入れると、油膜が張ってしまって酸素交換が出来ません。量が多いと呼吸ができなくなって死に至る。これがEVALIです。怖いなと思いました」 「そうですねえ」 「じゃあ、終わりです」 「あの、僕、胃カメラ……」 「ああ、そうだった、そうだった」
自分のそそっかしさまではっきり記憶されていました。
脳の中でカランコロン
御夫婦でアルコールをお飲みになるケースがあります。特に妻君がアルコールに強い場合は寛容で、アルコールに関する「飲み過ぎでは」なる会話もなく、とても幸せに生きているように思えます。
ただし僕としては心配なんです。何しろアルコールでは起きることは無数にあるから。そんなある日のこと、夫からこういう発言がありました。
「3週間前、脳の中でカランカランコローンと三拍子の音がしてたんだけど、治りました。やばいですかね」 「うん、やばいでしょうね」
とてもテンポが良い台詞ですから、三拍子のテンポを崩さないためには「うん、やばいでしょうね」と返さねばならないでしょう。
「耳鳴りですか、幻聴ですか」 「そのどちらでもないですよ」
その方と話すちょっと前、椎骨動脈の上のほうが蛇行して脳幹に触れるか触れないかの状況になり、神経に症状が出ていた人を診ていました。「脳の中で音がする」そういう表現は両耳から聞こえてきたことを意味し、普通の耳鳴とは違うのではないか。カランコロンと非常に規則正しかったというので、脳幹のあたりで血管が神経に触れる場所があるんじゃないか、あるいは血圧が少し変動して、動脈硬化が強い部分の振動が神経に伝わったんじゃないか、と想像しました。
振動、それは血管雑音(bruit)と呼びます。 脳鳴 (ずめい、あるいは頭鳴り)という言葉も検索すると出てきますけれど、その一部もbruitなのでしょう。 MRAで何かヒントが得られるかもしれない。最近検査をしていただろうか、とカルテをチェックしていると彼が言いました。
「先生、今日は血圧の薬は要りません」 「他はちゃんと飲んでいて、血圧の薬だけ余るということは、血圧が低かったの?」 「低かったわけじゃないけど、1日1個ずつ抜いてみてるんです。順番に」 「ちょっと待って、……ということは、少なくとも60日ぐらいそれをやっている?」 「当たりです」 「マジですか」
正直なのは良いことです。おかげで血管雑音がなぜ生じたかも説明できそうだし。ただ、この方の場合は少し低めにコントロールする必要がある事や、血圧の薬を3つ同時に飲んでも下がりすぎるのはまれだし、複数機序で効かせたいから、ちゃんと飲んだほうが良いですよ。ついでに言えばカランコロンの予防にも大事です、そんな話をしました。
「すんません」
アルコールは飲んだとき、一時的に血圧を下げます。アルコールに関連して血圧の薬を減らすきっかけになったエピソードがあったのではないかと想像していました。例えば飲んだあとにふらついて、測定したら100なかったとか。一時的に血圧を下げる一方、アルコールは腎臓での塩分の排出を邪魔します。結局血圧を上げてしまうから、血圧の薬を単純に減らすことは危険だったと思います。
話を聞きながら、僕は『オズの魔法使い』を思い出していました。ブリキの人形の頭の中が空っぽで、カランカランコローンと鳴っている……。しかしそれは記憶違いで、ブリキの人形になかったのは心臓、脳みそを求めていたのはカカシです。ただ当時はその記憶違いに気づいておらず、「ブリキだとMRIには入れないけれど、この方はブリキじゃなくてよかったよかった」などと思いながら、MRIの予約をしたのでした。
匂いでわかる人
僕はその人物の五感を全面的に信頼しています。イチゴやブルーベリー、ぶどうを食べる時、一粒ごとに「違うな」ぐらいはわかるけれど、どう違うかまで言語化出来る人はめったにいませんよね?彼女はそれができる人だからです。
「ところで、月経は順調でしょうか」 「それが調子が悪くて、先月は25日で来ました」 「排卵しそうな日がわかる女性はいらっしゃるけれど、あなたは?」
お腹の調子は、排卵日を基準に変化する女性が多いので、それを聞くのはお約束なのです。
「わかります」 「どうやって? 体温ですか」 「匂いです」 「え、匂い。嗅覚が変化するんですか。敏感になるとか」 「そうじゃなくて、オイリーな匂いがふっとしてくることがあるんです」
「……それは、深く納得できる」 「え。この話、どの先生に言ってもあり得ないって笑われますよ」 「いえ僕は納得します。月経に関わるホルモンって、構造式の多くが油性なんです」 「オイルってこと?」 「そうです。ちょっと待っていま検索してみます。ほら、みて、エストロゲンは芳香環を持っています。ひょっとして香るかもしれない」 「へえ! きっとそれだ」 「しかもこれらのホルモンは、GnRHという脳から出る上位のホルモンに支配されています。これが律動的、という言い方をするんですが、数分だけパルスのように出る。だからエストロゲンは急に分泌されるんでしょうね」 「そんな感じです、まさに」 「人間は、鈍感な人でもアリナミンという臭い注射をされれば、臭いなとわかります。つまり血液の中の揮発性物質の匂いはわかるんですよ。あなたの嗅覚が鋭いのはすでに知っていますから、エストロゲンが出た瞬間がわかるんだ、という話を聞いても、あり得るなとしか思えない」 「そうなんだー。納得しました」
時々「幻臭」という症状を訴える人がおられます。何もないのに香る、というのです。もしかすると血液の中で何か揮発性の物質が流れている可能性もゼロではないのではないか?僕はそんな事を思いながら聞いています。
カビの薬はしびれを治すのか
「カビの軟膏を首に塗ったら手のしびれが治ったのでまた下さい」
聞き間違いかなと思って、どの軟膏なの?と患者さんに確認するために薬歴を全部確認するハメになりました。
カビの軟膏を首筋にぬる可能性はゼロではありません。脂漏性湿疹という病気で、カビの薬を頭皮に塗ることがあって、それで治療を受けた経験がある人は、首の毛の生え際がかゆい時に「カビの軟膏を塗ろう」と思うかも知れないのです。そして、たまたまその時には手を挙げるでしょう。ぬりぬりする時の動きは適度なリハビリ/マッサージになるかもしれない。
その仮説が正しいのかどうか。念のため他の仮説がないか考えてみるとこういうものもあります。
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頸部の白癬なりマラセチアなり(脂漏性湿疹)で痒いため夜間に掻いていたり、あるいは痒みのために変な姿勢で寝てしまい、いつもと違う角度で神経が圧迫され朝手指がしびれてしまう。カビの軟膏を塗ると痒みが抑えられ、夜間の首の位置が正常となって治った。つまり、医学的に正当な事が起きている可能性があります。
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軟膏すなわち白色ワセリン基剤でマッサージすることで局所血流が改善し、頸部の筋緊張が緩んで神経根への圧迫が減少する、という機序で改善している。
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しびれが頸椎症性神経根症だとすれば、数週から数か月で自然に軽快していくが、色々試しているうちのたまたま軟膏を塗る時期と、治る時期とが重なってしまった。そして塗り続けている限り再発しない、という事実が積み上がり、ますます患者さんは「これが効いてる」と思い込んでしまう。
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頸部のマラセチアが悪さをしており、手指のしびれを起こさせるという新たな病気を発見している。
さて、起きていない事は覚える事が難しいと書きました。おそらくどう説明しても患者を納得させられなかったのでしょう。その話がどうなったかは記憶に残っていないのです。
引用文献
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リッケルトは新カント派の哲学者で、時間や空間という人間の認識を大事にしています。彼は科学を「自然科学」と「歴史諸科学」の2つに分けました。自然科学は「自然法則」を見つける学問とし、歴史諸科学(社会、経済、歴史、芸術など)は文化内での重要さを議論する学問、としそれを「文化科学」と呼びました。この考えは歴史学などを哲学的に議論するための下地になっています。 ↩
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ハイデッガーはリッケルトに学んだのち、フッサールの現象学を継承して独自の存在論を築いた20世紀の巨人です。人間は世界の中で周囲の物事と関わりながら生きる存在だと捉え、必ず死ぬ「有限性」を直視することを求めました。人は有限の時間を背負い、その中で自分の可能性へ向かって生きる——これが現代思想の中心的な見方を形づくったと言えます。一方で1933年ナチスに入党してフライブルク大学学長となり、学長職は約1年で辞したものの党籍は終戦まで保持し、戦後長く厳しい批判を浴び続けている人物でもあります。 ↩
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以前に当レター(20240110)の「笑い」で取り上げたベルクソンはフランスの哲学者で、反カント的に直感を重視した人です。アインシュタインの相対論も批判した、と言います。そんなにムキにならなくても。でも彼が提唱した、生命の飛躍とか鼓動という意味の、エラン ヴィタル(élan vital)という言葉は素敵ですね。 ↩
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ボーヴォワールはフランスの難関国家資格である哲学の教授資格試験の勉強会でサルトルと知り合い、サルトルと同時合格。サルトルが首席、彼女が次席。彼らは生涯のパートナーとなります。名著『第二の性』で「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と唱え、女性らしさや抑圧的な役割は、生まれつきではなく社会構造によって作られたものすなわちジェンダー(社会的役割)だと暴きました。男性を「主体」、女性を「他者(客体)」とする人間社会の構造を批判し、他者の自由を尊重しながら自立して生きる倫理を訴えました。 ↩
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哲学者のカントが考えた「定言命法(ていげんめいほう)」は「損得や条件抜きで、絶対に守るべき正しいルール」を指します。普段私たちは「怒られたくないなら、嘘をつかない」「褒められたいから、手伝いをする」と考えがちです。カントはこれを「仮言命法(かげんめいほう)」と呼び、「それなら、怒られない状況なら嘘をついてもいいの?」となってしまうため、本当の道徳ではないと考えました。定言命法は「嘘をつくな」「手伝いをせよ」と、理由や条件なしに命じるものです。では、何が「絶対に守るべきルール」なのでしょうか。カントは「自分がやろうとしていることを、世界中の全員が同時にやっても問題ないか?」を基準にしろと言いました。たとえば「自分の都合が悪い時は嘘をついてもいい」という自分ルールを作ったとします。でも、世界中の全員が「都合が悪い時は嘘をつく」ようになったらどうなるでしょう? 誰も他人の言葉を信じなくなり、社会や人間関係がめちゃくちゃになってしまいますよね。だから「嘘をつくこと」はダメであり、「嘘をつくな」が定言命法になります。つまり、「見返りがほしいから」とか「罰が怖いから」といったご褒美や損得ではなく、「それが人間として正しいことだからやる」という、とてもストイックでまっすぐな考え方が「定言命法」です。 ↩
