#鵜川医院レター

「知ってた」は「忘れてた」と同義 / r-K戦略説 / 知識は点ではなく線でアップデート / チュルリョーニス展 / ヒルマ・アフ・クリント展

目次

死ぬために生まれた者たちと、生き残る者たち

「知ってた」=「忘れてた」

Planet Wildlifeというサイトに、“Animals That Are Born to Die”(死ぬために生まれた動物たち)という記事がありました。産卵後に生きたまま腐敗する太平洋サケ、口すら持たず24時間以内に死ぬカゲロウ、繁殖期に全オスが例外なく死亡するアンテキヌス、交尾すれば生殖器を引きちぎられて即死する雄バチ、地下で17年を過ごし地上では数週間しか生きない周期ゼミ、そして卵を守りながら何年も絶食し孵化と同時に息絶えるタコの母親。6つの種が紹介されていて、どれも鮮烈です。

Animals That Are Born to Die: Nature’s Most Brutal Life Cycles - Planet Wildlife

読者の反応はおそらく二種類に分かれます。「すごい」か「知ってた」か。どちらも正当な反応ですが、そこで終わってしまうなら惜しいと思います。サケが産卵後に死ぬことは多くの人が知っています。でも、なぜそうなのか——そしてなぜゾウやクジラはそうならないのか——を統一的に説明できる考え方を勉強し、覚えている人はずっと少ないのではないでしょうか。「知ってた」は、たいていの場合「忘れてた」と同義です。

ジャーナリズムの軽い読み物は入口としては優れています。ナショナル・ジオグラフィックなど最たる例です。Planet Wildlifeはリンクが張ってあるだけはるかに良い。しかしいくら詳細に解説されても、「ではその洞察はどのように発見されたのか」は書き尽くせません。だから自分で調べるしかないのですが、最近ではちょっと気の利いた人工知能にプロンプトを入れれば良い時代になりました。

プロンプト例: キングサーモンなどの太平洋サケ近縁種は、海で体と筋力を蓄え、その後、遡上を始めると完全に餌を食べなくなる。産卵場にたどり着く頃には、すでに体は崩壊し始めている。筋肉は溶け、皮膚は腐り、目は濁っていく。魚は生きたまま腐敗していく。内分泌学的な自己破壊のメカニズムも研究されている。これらの事実はどのように研究されてきたのか、研究史を検索しまとめてほしい。(これをDeep Researchで)

既成事実の裏には、たいてい何十年もかけてその現象を解明した研究者がいます。アンテキヌスの雄がなぜ一種残らず死ぬのかも、誰かが問い、調べ、論文にしてきた歴史があります。「知ってた」で勉強を終わらせるには、自然はあまりにも深いのです。

研究史を学ぶということ

ここで言う「研究史」とは何かを明確にしておきます。特定のテーマについて、過去にどのような研究が行われ、どのような理論や議論や発見が積み重ねられてきたか、という歴史的な経緯のことです。「先行研究の歴史」とも言い換えられます。論文を書いたり新たな研究を行う際には、まずこの研究史を把握し整理することが不可欠なプロセスとされています。

これは研究者だけの話ではありません。Obsidianというテキストエディタがあります。自分の考えや既存のドキュメントをリンクで結びつけ、組み立てていくための道具で、いわば個人の「思考史」を構築するツールです。研究者が先行研究を整理するように、自分自身の知識と思考を整理する。これは今後の世界を生きていく人にとって、非常に役立つスキルだと思います。

さて、この「死ぬために生まれた」という記事を読んで自分が最初に感じたのは、「ああ、これは生命の生活史理論(life history theory)のうち、r選択をとる生物の中でも、生活史が比較的長い種たちをクローズアップしたんだな」ということでした。サケは何年も海で育ち、周期ゼミは17年地下で過ごす。「大量に産んですぐ死ぬ」という典型的なr選択の印象からは少しずれた、境界的な存在です。ある理論ではこちら側、別の視点では逆側——そういう立ち位置の生物に注目すると、人の興味を引きやすいのです。

r/K選択説——その隆盛と批判

では歴史を振り返ります。

1967年頃に発想され、1970年代から1980年代に非常に隆盛を誇ったのが、r/K選択説(The r/K selection theory)です。

dNdt=rN(1NK)\frac{\mathrm{d}N}{\mathrm{d}t} = r N \left( 1 - \frac{N}{K} \right)

ここで、Nは個体数、rはrateで最大成長率、Kは局所環境の収容力(ドイツ語の Kapazitätsgrenze)です。時間における個体数の変化はこの式で表せる、というのです。

r選択とは、rが大きく、生き残る数は少ない種です。大量に産み、大量に死に、少数が生き残ります。カゲロウ、サケ、蚊、マンボウがこちらに属します。親は子への投資をほとんど行わず、数で勝負します。環境が不安定で、いつ何が起きるかわからないとき、「とにかく撒く」方が合理的になります。

K選択は環境の収容力が十分大きい場合です。少なく産み、長く育て、一個体あたりの生存率を最大化します。ゾウ、クジラ、アホウドリ、ヒト。こちらは環境が比較的安定しているとき、子の「質」——体の大きさ、学習能力、社会的知識——が生存率を大きく左右するときに選ばれます。

シンプルに数式で議論する大胆さが注目を集め、「ある動物の個体数を予測する」のような仕事では非常に便利だったのですが、実地研究が進むと食い違いが目立ち、1970年代後半から批判が起きています。たとえば樹木は長寿で強い競争力を持ちながら大量の種子をばらまくので、r/Kの二分法には収まりません。ウミガメも長寿でありながら卵をたくさん産みます。現実の生物は、理論が想定するほどきれいに二つに分かれてはくれなかったのです。

生物が進化の過程でどのように「出生から死亡までの過程(寿命、成長速度、繁殖開始齢、産仔数など)」を最適化し、生涯の繁殖成功度を最大化しているか、これを「生活史理論(life history theory)」として説明したスティーブン・スターンズ(Stephen C. Stearns)が1992年、「r/K選択はもはや役割を終えた」と総括するに至りました。

この生活史理論では「速い−遅い連続体」(fast-slow continuum)という考え方が次に注目されました。

この理論では、短い時間を生きる生物ほど多産だ、と説明され、これも一世を風靡しました。しかし、その計算に使われているデータから体重を除くと相関関係が認められない、という事を示した論文が登場します。Jeschke & Kokko (2009) の論文です。

本川達雄の『ゾウの時間 ネズミの時間』(1992年)は、体サイズと時間のスケーリング則(アロメトリー)を一般向けに紹介した著書で、生活史と体サイズの関係を考えるうえでの入口として広く読まれていますが、これを先取りした内容と言えるのかも知れません。

結局のところ、体サイズが大きい種ほど「遅い」生活史を持つという一般傾向は頑健なパターンです。

ちなみに同じヒトという種の中では小柄な個体の方が長寿である傾向がありますが、これは種間比較とは別のメカニズム(IGF-1シグナリングなど)が働いているためで、矛盾ではありません。

重要なのは、rとK選択は進化論の中で死んだわけではないということです。気候変動のような大きな撹乱ではr選択が有利になりますが、その後の安定期にはK選択が台頭する場合があります。この考え方は生命の進化だけにとどまらず、免疫システムの進化の説明に応用されたり、社会科学で犯罪の発生や広がりの理解に使われたりもしています。

このような研究史を辿ること自体が、非常に面白いのです。

サケの死は誰のためか——我々が美しいと思うもの

記事の中で最も印象的だったのは、サケの死骸が森林を養うという記述です。死んだサケの体内の海由来の窒素が、川岸の樹木に取り込まれ、水辺から100mも離れた森にまで届きます。美しい循環の物語であり、つい「自然はよくできている」と感嘆したくなります。

ですが、ここで因果の向きを間違えてはいけません。サケが産卵後に死ぬのは、森を潤わせるためではありません。遡上と産卵に必要なエネルギーがそのぐらいだった、というだけの話です。森林への窒素供給は進化の原因ではなく副産物です。

ただ、ここからもう一歩踏み込んだ研究者たちがいます。彼らが考え出したのが、ニッチ構築(niche construction)という比較的新しい概念です。生物が自らの行動によって環境を改変し、改変された環境が今度はその生物自身の子孫への選択圧を変える、というフィードバックループです。サケの死骸が河畔林を豊かにし、豊かになった河畔林が水温や昆虫相を安定させ、それが稚魚の生存率を上げるなら——サケは自分の死によって、自分の子孫が生きやすい環境を「偶然」つくっていることになります。

設計者はいません。しかし結果だけを見れば、完璧に設計されたように見えます。選択の結果として「異常に美しい」構造があらわれる。これが地球の最も不気味な特性です。

人間という異常値

r/K選択という考え方の中では、人間はK選択の極端な例として位置づけられます。少産・長寿・膨大な親の投資。子供が歩けるようになるまでに1年、自立するまでに18年以上かかります(以前は12年、そして15年、現在は18年ぐらいでしょうか)。生殖可能年齢を過ぎてもなお数十年生きます。祖父母が孫の生存率を上げるという「おばあさん仮説」が成り立つほど、世代を超えた投資を行う種は他にほとんどいません。

ところが人間は、農耕、医療、技術によって、K選択の最大の弱点——個体数回復の遅さ——を克服してしまいました。K選択の質的優位を保ったまま、r選択的な爆発的増加を実現した。進化史上、前例のない事態です。

その結果、人間は他のあらゆる種にとっての環境変動そのものになりました。かつてはプレートテクトニクスや氷河期が数百万年かけて担っていた役割——生息地の消滅、気候の激変、種の大量絶滅——を、人間は数百年という進化的には一瞬の時間で引き起こしています。ジャレド・ダイアモンドが『銃・病原菌・鉄』で描いたのは人間社会間の不均衡でしたが、その構造はそのまま人間と他の種の関係にも当てはまります。火と道具と言語を持った一つの種が、地球上の選択圧そのものを書き換えてしまいました。かつて大陸の移動が数千万年かけて行った生物相の再編を、人間は飛行機と貨物船で数十年のうちにやってのけます。外来種の拡散、森林の消失、海水温の上昇——どれも大陸移動や氷河期と同じ種類の力ですが、速度だけが桁違いに速いのです。

生き残るのは誰か

だから、と言うべきでしょうか。個人的には、人間がこのまま地球上で長く存続する未来をあまり想像できません。K選択種の弱点を技術で克服したと書きましたが、それは裏を返せば、技術が維持できなくなった瞬間にK選択種としての脆弱性がすべて表面化するということでもあります。

では、人間の後に何が残るのでしょうか。

K選択種は人間によってすでに深く傷ついています。ゾウ、サイ、大型霊長類、クジラの多く——個体数の回復に数十年を要する種たちは、人間の圧力が消えたとしても、ある閾値を超えていれば戻ってきません。リョコウバトはかつて北米大陸の空を数十億羽で覆ったr寄りの種でしたが、生息地の破壊と乱獲の同時進行で1914年に絶滅しました。r選択であっても、生息環境そのものが消えれば崩壊します。

しかし全体の傾向として、r選択寄りの生き物たちの方が、種としての持続力ではるかに人間を上回ります。カゲロウの成虫は一日で死にますが、カゲロウという種は3億年以上存続しています。ゴキブリは3億5000万年。菌類はそれ以上です。一方、ホモ・サピエンスはまだ30万年しか経っていません。

個体の寿命と種の寿命は、しばしば逆転します。短く生きて大量に死ぬ者たちが、種としては最も長く地球に居座ります。長く生きて少なく産む者たちが、種としては脆い。人間はその脆さを技術で覆い隠してきましたが、覆い隠すことと克服することは違います。今できることはソフトランディングであって、人間がどのような選択をとるべきか、個の幸せとどうバランスを取れるのか、ある種の罪悪感とともに日々考えざるを得ません。

おわりに

記事は「残酷さは観察者の解釈にすぎない」と結んでいました。しかしそれは記事がそう読ませたいだけの話であって、実際にそう感じる人は少ないのではないでしょうか。

木村資生の中立進化論のことを、今回の文章に入れたいと思いながら入れられませんでした。それは残念ですが、進化の研究というのは結局のところ、「僕たちはどう生きるか」という問いに繋がっています。表面的な文字を追うだけでなく、面白がりたい。そう思ってこの文章を書いていました。

100年、200年先の答えが何であれ、カゲロウ属の繁栄はあまり変わらないのだろうと思います。

エミール・ガレ「蜉蝣」1890頃

エミール・ガレ「蜉蝣」1890頃


点ではなく線で学ぶ

医者は色々な時代を生きた人とコミュニケーションせねばなりません。そして「新しいガイドラインに沿って」という考えのみを持っていると、取り残されてしまう人が沢山出てきます。

したがって、ガイドラインがあったらその変遷は全部知っておくほうが良いのです。

最近の事ですが、医師会の消化器病研究会で「Rome I」「Rome II」「Rome III」「Rome IV」がどう変わり、今年予定されている「Rome V」はどう変わると予想できるか、みたいな事を話題にしました。(などと書いていた今、preorderが始まりました!)ガイドラインを話題にするときは、必ずその変化とその理由を説明するのが自分のやり方です。

私は民俗学者の宮本常一が好きなのですが、彼の事を好きな理由の一つは「万葉集をすべて諳んじていた」という知識の豊富さです。彼は一高東大のようなエリートではないですが、教養は大変深く、さらに万葉集をすべて知ることは日本津々浦々の人々と仲良くなるのに役立ったことでしょう。

哲学者の九鬼周造が万葉集のすべての句を研究・分類し、そこに日本人のすべての感情をまとめた「情緒の系図」も好きです。

自分よりも前の世代の医学を知る術は古い教科書以外あまりありませんが、わざわざ古いものは読まないかも知れません。私は父や祖父から沢山受け継いだものがありますがそれは運が良いというだけのものです。普通はどこからそういう知識を受け継いだら良いのでしょう。

一つは先程示した「研究史」です。人工知能のお陰で簡単になったと書きました。

もう一つは少し民俗学的な考え方で、医師のヒストリー研究です。経験豊富な医師のエッセイを読んだり、話を直接聞くことも貴重な経験ですし、ブログやSNSも良い。小児科医の原朋邦先生は88歳を越えてもなお毎日Facebookで日記を書いておられ、それが実に勉強になります。

トントン先生の乳幼児健診〜時期別・状況別・臓器別に学べる、限られた時間での診かた・考え方のコツ

この方自身の経歴は全く参考になりません。とにかく体力が桁違いなので。著書もいくつか。

ロールモデルにはなりませんが、麻疹の流行を経験し、その壮絶さを体験で語る、その内容は経験のない我々にぐっと来るものがあります。普通辛い経験は語りませんけれど、著書を書いておられるし、気持ちに整理がついているという事でしょう。そして著書を書くほどのエネルギーを使わずに、Facebookで、誤字も気にせず発信される、いい時代になったなと思います。

つい最近もご近所の女性の方が胸が痛いと仰られて相談になりました。触診で肋骨骨折と考えましたので、レントゲン写真では直後には診断しし難いので超音波の方が診断できると考えて私よりはエコーの扱いは息子の方が長けているので、息子にやってもらいましたらやはりそうでした。

当院と同じだな、とクスッとしてしまうような文章もあります。

2022年5月13日 ハリソンの内科学の21版が出版されました。(中略) 私は、内科や小児科の教科書を購入すると、先ず、初めの部分を読み、疾病としては自分が最も遭遇する患者さんである普通感冒(common cold)の部分を読みます。今回もそうしました。やはり前の版とは内容が変わっています。よく言われるのが最新の教科書の知識は最新ではない、でも何十年経っても教科書は基本だとも言われます。1991年頃だと記憶しているのですが、アメリカの小児科医の専門医の試験問題を当時のネルソンに記載されている内容でも満点は採れない、でも初版本の知識でも合格点は取れるということがJournal of pediatricsに出ていました。どの世界も同じなのでしょうね。

普遍的な知識をしっかり身につけて合格点を取れればOK、満点は目指さない、が自分の勉強法でしたが、「変わってるね」とよく言われました。でも、試験問題をつくるときに当然出題者はそれ(社会に出たあとのこと)を考えるべきだ、と考えていましたから。こういう事が書いてあると嬉しく思います。

2025年9月2日 ハリソンンの内科学書22版が発売になっています。(中略) 早速いつものやり方で、最初にCommon coldを読みました。1537頁、今度は変わっていました。呼吸器感染ウイルス感染症としてまとめられています。前の版で参考文献で読んだコロナウイルス感染症の論文を読んでコロナの流行を予測したあのですが、今回はCOVID-19は独立した章になっています。(中略) 読んでも、その知識をアウトプットする機会が減っているし、でも読んでいる間は一人前の医者の意識があるので、読める幸せを楽しもうと思います。今晩抱いて寝るかな?

ハリソン買って読んでない自分が恥ずかしい。

2026年5月21日 いわゆる風邪と言われるのは、多くは上気道のウイルスの感染ですが、マイコプラスマの感染や溶血性連鎖球菌の感染でも似たような症状は出ます。私たち医師は、患者さんの病歴を聞き、受診時までの経過を把握し、今の所見を得て病原体を推定します。病原体になるウイルスで経過がことなりますので、今後の経過を推測します。よく、風邪ウイルスなんて言い方をされる人が居ますが、風邪しか起こさないウイルスや細菌はありません。私共は、外来で病原体が何であるかを確認しながら診療を行っているわけではありません。(中略) 本を買うと、自分が一番診る頻度が高い風邪の項目をまず読みます。2019年にハリソンの内科署が改定されました。今出ている版の前の版です。引用されている論文で、コロナウイルスの論文を読みました。ウイルスの増殖機構で不明とされている部分が沢山ありました。その論文に引用されている参考論文は330くらいありましたが、日本人がトップネームの論文は東大医科研からの2編しかありませんでした。日本にはコロナを研究課題にしている人が少なかったのがわかります。おまけに、今後パンデミックが起こるとしたら、中国からでコロナウイルスだろうと書かれていました。10月に武漢で肺炎が入院したという情報がネットに出ていたので、「コロナが出た」と思いました。患者が40人台でした。ウイルスごとの特徴を知ると、風邪の患者さんは、病原体が推測できます。謎のウイルスと思うのは稀なのではないかと思うのですが・・・

これはどういう文章かと言うと、ネットでいう「謎の風邪」騒動に対する厳しい批判です。

臨床能力のない医者、説明能力のない医者が集まっていると「謎」みたいな噂が独り歩きする。

私も外来で患者さんに質問されたので、「そのような噂は存じませんが、少なくとも医師内では全く話題になっておりません。そもそも症状が長引く、と患者さんが感じる場合、感冒後咳嗽の事を勘違いしていたり、他の疾患と混同していたりするのです」と答えましたが、実は質問されるまで一切知りませんでした。何しろSNSもテレビも見ないのです。

巨人の肩の上、という言葉がありますけれど、研究史を勉強することや、先輩の言動を注意深く聞いたり読んだりすることは、自分にとってはとても重要な事です。したがって私が書く日記とかレターには、明確な引用は書いていませんけれど、なるべく「どこから引っ張ってきた知識かな?」と書くようにしています。それは線で学ぶ面白さを伝えたいからでもあります。

大阪の国立国際美術館で行われていた展示のポスターで、内容とは関係ありません。

大阪の国立国際美術館で行われていた展示のポスターで、内容とは関係ありません。


Čiurlionis

国立西洋美術館で2026年6月14日まで行われている「チュルリョーニス展」は各所で人々の心を撃ち抜いているようで、私の周囲では絶賛の嵐です。もちろん私も「全然知らなかったが……良き」と感じました。

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とても覚えにくい名前、思い出そうとする時に美術館の説明冒頭で「Čはチェコ語で、chの音を表し」と書いてあったことをまず思い出します。これで「チャ、チュ、チョのどれか」とわかり、そうだ(ペットが大好きな)チュールだなあ、そのあと”l”(小文字のエル)があったなあ、チュルリーニョスだったかチュルリョーニスだったか、とようやく思い出すわけです。途中に”url”とか”lion”が入っているな、も大切。

“C”の上についている”v”のようなマークはチェコ語でハーチェク(háček)、英語ではカロン(caron)と呼びます。日本語も江戸時代はカナの表記揺れがものすごかったのですが、チェコ語でもそうだったらしく、たとえば現在”ř”と表現される文字にはrz/rrz/rs/rzs/rzss/zr/sr/rzs/rzzと何通りも表記が存在したそうです。15世紀にヤン・フス(プロテスタントの先駆けとなり処刑された宗教者)が使い始めたと言われ、それにより綴りが安定しました。

日本で変体仮名が統一されたのが明治初期ですが、チェコ語でも同じ頃に正書法として普及していきました。多くの人々が文字を読み、書き始めた時期、ということなのでしょう。

ハーチェクの覚え方ですが、NHLの名ゴールキーパー、ドミニク・ハシェックで良いのではないか。”Dominik Hašek”と書きます。チェコ出身。長野オリンピックでチェコを彼が金メダルに導いたことで有名。メモして覚えましょう。

https://www.youtube.com/watch?v=TxoerRWlEMA

「Čiurlionis」はとにかく覚えにくいので、見に行った日は半日「チュル・リョー・ニス」「チュル・リョー・ニス」と念仏を唱えていました。

日本では13年ぶりの回顧展らしいのですが、初耳でした。全く勉強せずに出かけました。作品はリトアニア国立チュルリョーニス美術館からの貸し出しです。

会場に入ってまず目につくのは「1906年」という年号で、その直前に行っていた下村観山展を思い出しましたし、彼の活動が驚くほど短い期間に集中していたことを知らされます。1875年生まれ、1911年没。35歳です。最初はワルシャワの音楽学校へ進み、そこで才能をあらわして約400曲を作りました。それからワルシャワの美術学校へ移り、卒業後に約300点の絵を残して、6年後に精神を病み、肺炎で亡くなっています。

文字にするとあっという間、しかし彼の活動は濃厚で、創作に留まりません。彼にはリーダーシップがあり、日露戦争に敗れて革命の起きたロシアの混乱に乗じる形で独立運動が起きたリトアニア国内における美術界の精神的な主柱として活躍しました。そしてカンディンスキーの主催するサロンへの招待状が行き違いになった翌年に、彼は亡くなっています。カンディンスキーが最初の本格的な「抽象画」を発表するのは、その後のことです。カンディンスキーの抽象と、チュルリョーニス作品とを連想したくなるエピソードです。

初期の作品には、すでにハープに見立てた木が抽象的に並ぶ情景があり驚きました。その後、美術学校でガラスエッチングを一年ほど手がけているのですが、滲んだ領域や垂れる薬液のようなモチーフがそのまま抽象画的であり、続く一年ほどの作品をその記号が支配しています。彼の絵は抽象画の先駆と呼ばれますが、それは外から持ち込まれた様式ではなく、もともと彼のうちにあった音楽と、ガラスや絵の具との新しい出会いから自ずと生まれてきたもの——展覧会はそう読み取らせたいようでした。

音楽と絵画、共感覚?という考えを否定するような文章が会場にはありました。彼に共感覚はなかったらしいのです。音楽と絵画の融合は、共感覚的な同時変換ではなく、論理的に「時間を絵にする」という技法によってなされています。点ではなく線。〈ソナタ〉と題された一連の作品は、画面そのものに楽章の構造を持ち込んでいます。そのリズムは自ずと抽象的になり、幻想的な色彩感覚と相まって、なんとも素敵な作品群となっています。〈海のソナタ〉や〈星のソナタ〉のことです。

ところがです。なぜかショップでは、この〈ソナタ〉系の絵葉書や複製画がすっぽり抜けていました。売り切れなのか、それとも最初から扱っていないのか。展示はまだ始まったばかりであるのに、ちょっと残念でした。

その後の作品は、革命運動と呼応するようにリトアニアの美しい風景を題材とした連作へと移り、最晩年(と言ってもわずか1〜2年後なのですが)神秘主義というか、当時のヨーロッパに広く漂っていた、あのオカルトめいた雰囲気の作品で終わります。

35歳という生涯の短さに、菱田春草を思い出してしまいます。偶然ですが彼も1911年に36歳で亡くなりましたし、何より朦朧体——輪郭線を捨てて空気と光そのものを描こうとしたあの試み——を作り出した人です。線ではなく滲みを作品としたという点で、ガラスエッチングでの習作が多数あるチュルリョーニスとどこか響き合うものがあります。ついでに言えば、マーラーも1911年没です。50歳で亡くなりました。そしてマーラーの音楽が、非常に長いとか、哲学的とか、生と死を表すとか、言われますけれど、そういう時代だったのだろうと思わされます。

カンディンスキーとの行き違いは象徴的ですが、もし招待状が届いていれば、彼は抽象絵画の祖としてメジャー作家になっていたでしょうか。と、一瞬考えましたが、彼が国民的な作家として尊敬されているのは、革命における存在感や愛国心ゆえでしょう。その多忙さが彼の命を短くしたことは間違いありません。

ところで肺炎で亡くなった、と書きました。ペニシリンの発見は1928年です。彼の死から17年後。あと20年遅く生まれていれば——いや、それを言い出せばペニシリンで救えた人々はあまりにも多い。同じ様に1996年のエイズにおける治療薬の登場に関しても同じような感傷が起きます。

結局のところ早世とは惜しむものなのか、それゆえ作品に何かが宿るのか、念仏のように「チュル・リョー・ニス」と唱えながら、帰り道でぼんやり考えていました。


ヒルマ・アフ・クリント

ちょうど1年前ですが、国立近代美術館で行われていた「ヒルマ・アフ・クリント展」に駆け込んでいました。チュルリョーニスと同じく、欧州の主流からは外れているものの、当時のヨーロッパ全体に流れていた「神秘主義的な」雰囲気をまとった画家です。個人で先行していた人、という括りに入れられるでしょう。

ヒルマ・アフ・クリント(1862-1944)は、19世紀末から20世紀半ばにかけて生きたスウェーデンの女性画家です。彼女の作品は人気があるようで、中年~高年の女性客多し。2018年のグッゲンハイム美術館での大成功と世界への認知を受けて、アジアで最初の大回顧展とのことです。壮大なスケールの作品が並び感銘を受けました。

☆時代を先駆けたスピリチュアルな表現

1892年に霊的なメッセージを受け取って以来、神秘主義に傾倒し、多くの作品を生み出しました。 フリーメーソン的なシンボルは多数登場しますが当然神智学協会との関連があるのでしょう。(後述のシュタイナーは神智学協会の関係者)虹はなぜか赤橙黄青緑藍紫で緑と青が逆になっているのが興味を引かれました。 神智学つながりがモンドリアンで、テート・モダンで「Hilma af Klint & Piet Mondrian」が2023年に行われています。 特に興味深いのは、彼女がドイツで出会ったルドルフ・シュタイナー(シュタイナー教育で知られる思想家)に共感され理解されつつも、1910年前後に「発表するには時期尚早」とのアドバイスを受けたというエピソードです。実存主義が台頭する以前の時代において、彼女が自身の霊的体験を作品として提示することは、確かに当時の人々には理解されにくかったのかもしれません。クリントがニーチェを読んでいたかは定かではありませんが、シュタイナーがニーチェから強い影響を受けていたことを考えると、彼らの思想には何らかの関係性があったのでしょう。

☆ユングとの驚くべき共通点

展覧会で特に私の目を引いたのは、クリントの曼荼羅的な作品群が、カール・グスタフ・ユングが曼荼羅を霊的メッセージとして認識し始める1916年の直前に描かれているという事実です。(チュルリョーニスによる曼荼羅は1910年です)しかし色調はパステルカラー。これは、異なる場所で、異なるアプローチを取りながらも、時代精神が共通の象徴的表現へと導いたことを示唆しているように思えました。

また、ユングが生涯をかけて自身の精神的な拠り所として「ボーリンゲン塔」を築いたように、クリントもまた、自身の作品群を収めるための螺旋状の「寺院」をヴェン島に建設することを構想していたという点にも、深い共通点を見出しました。(チュルリョーニスが塔を描いたのが1909年です、神秘主義の人々には同じようなモチーフが登場するようですね)

ただ、ユングがオカルト的な要素からやや距離を置いていた(1906年から一時的に神智学協会に在籍)こと、クリント自身もユングと自分の類似性を意識していたかは不明ですが、両者が実際に交流したという記録はないようです。シュタイナーとユングには接点があったことを考えると、この二人の巨匠の間に直接の邂逅がなかったことは、私には一層興味深く感じられます。

☆作風の変化と現代文化への影響

シュタイナーとの出会いを経て、クリントの作品には自然物が登場し、作風にも変化が見られます。1920年頃の作品には、地理的にも時代的にも重なるバウハウスデザインのような幾何学的でモダンな要素も感じられましたし、個人的には「ハート」を見つけてニヤつくのでした。

2018年のグッゲンハイムでの大規模な回顧展の成功が、2019年公開のアリ・アスター監督の映画『ミッドサマー』に影響を与えたかどうかは定かではありませんが、色調、オカルト的な雰囲気、そして特定の視覚的モチーフに共通点があるように感じられました。これは、単なる偶然ではなく、クリントの作品が視覚文化に与えた潜在的な影響について考えさせられるきっかけとなりました。(スウェーデンという国について考えなければならない)

いつも学生と見るときには、単なる美術鑑賞にとどまらず、当時の思想や心理学、文学、あるいは医学との関連を説明しています。クリント、全く知りませんでしたが必然的な存在感、がありますね。

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