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体重は訊く / ドライクリーニング / ピーナツの濡れ衣 / MINAMATA W・ユージン・スミス

目次

体重は、訊く

体重を量らずに、訊いています。

外来での話です。検診ではあらかじめ機械的に測定されてしまいます。でもそれではせっかくの情報が失われてしまうのはないでしょうか。

外来では、まず訊きます。「体重は?」——この三文字、あるいは五文字の問いは、ときに人間性を炙り出すでしょう。

体重は?」「えー、夏は水を飲むせいか太っちゃう

こんなやりとり。

「◯kgです」なんて答える人はほとんどいません。この人は太ったのでしょう(ほんとうかな?)。「ほう、そうなんですか」と相槌を打ちながら、頭の中では別の声が聞こえています。「夏に太るんじゃなく、夏以外に水を飲まなさすぎなのでは……? それ、慢性的脱水では……? 腎臓は大丈夫……?」「むくみを意味するならば、原因は他にもあるのでは?カリウムは大丈夫だろうか…… 電解質異常は…… 貧血もあったり?」妄想はどんどんエスカレートしてしまいます。

もちろん軽々しくは口に出しません。気になることはカルテにメモはしますけれど。

そもそも「体重は?」への答え方は、実にバラエティ豊かなのです。

一番多いのはもちろん「変わりません」。何万回と聞いてきた、このシンプルな一言が、奥深い。

もう何年も前のことですが、ある日、中学生がそう答えました。軽い感じで、さらっと「変わりません」。親もスルーしました。だが、体重が日々変わるべき年頃の子が「変わりません」と答えるのは、違和感があります。——その日はメインの症状に私の注意が向いてしまい、その違和感をそのままにしてしまいました。でも「あの一言、ひっかかるよなあ」と診療終了後に思い出し、「どうしてそう答えたんだろう」とあーでもないこーでもないと考えてしまうのです。

「変わりません」の中身は一定ではありません。変わらないと言いながら、不定なのです。なんという矛盾でしょう。

昨日と変わらないという意味の人。量っていないのにてきとーにそう答えている人。本当に十年変わらない人。2kgぐらいの増減なら「変わらない」と言う人などなど。

「わかりません」と空耳することもあります。でも、あながち遠くないかもしれない。だってわかっていないのかもしれないのだから。だから、「では」と体重計で測定することにします。そして観察するのです。この人は「何を基準に」変わらないと言う人なのか、と。その基準がわかれば、今後この人が口にする表現すべての、真の意味が読めるようになります。(大げさなのですが)

答え方は、本当に人それぞれなのです。

「2週間前に57kgあり、最近0.5kg減ったのですが、ちょっと忙しかったせいかなあ」——目の前に最近の生活がありありと浮かぶような、作文みたいに見事な答えをする人がいます。こういう人に出会うと、「あ、観察力があるな、自分で異常に気付けるタイプだろうな」と嬉しくなるのです。

それでも、一日を通して一番多いのは、やっぱり「変わらない」です。

「変わらない」という言葉によって、私の作業は少し増えます。コンピューター画面のボタンをダブルクリックして過去の体重を確認し、推移をざっと見ます。ときどき「ここ数回、記録してないじゃないか……」と内心で自分を罵倒しながら。

「変わらないってことは、59kgでいいですか?」と訊き直すと、きょとんとした顔が返ってくることもあります。フィーリング(ウエストの感じなど)で答えており、具体的には自分の最近の体重を知らなかった人なのでしょう。「違う、59.7kg」と妙に正確な人。「58.5kg」と答えるが、それが朝イチの一番軽いドライ体重だったりする人。あとで測定してみると実は60kgなのだが「ええ」と平気で答え気にしていない人。前回の59kgが下痢で痩せたときの数字だった人。「59から60の間です」と言い直す人。「55kgです」と驚きの答えをする人……。

朝の体重を申告したい人はいますが、私としては風呂上がりに量ったものを認識しておくのがいいと思っています。最近の体重計についている体組成計は皮膚が乾燥していると数字がずれるので、風呂上がりが安定するのです。でもまあ、いつ測定していただいても情報としてはありがたい。

さて、自分にとって印象的だったのは、「だいたい100と110kgの間ですねぇ」と遠くを見ながら言った人です。

5kgの振れ幅なら決して珍しくありません。5%以上体重が変化した時にそれはおかしいと判断します。中心の体重を105kgとすればたしかに±5%ですから病的ではないのですが、10kgはインパクトが大きい。

思わず「振れ幅、でかすぎない?」と訊いてしまいました。なるべく丁寧な言葉遣いをしたいのに、素が出てしまい、タメ口になってしまって。

「わかんないんすよねー」と、彼もタメ口です。気にしていないようです。そして、また20m先を見ます。鵜川医院の診察室からは柿の木が見えます。いい眺めなのです。

その余韻、10秒か20秒か。CM1本分の時間に、その人生の様々な姿が想像され、本人は細かく話そうとしないのだから勝手に想像しているのですが、上手いリアクションが見つからず自分も黙り込んでしまいました。

この「体重を訊く」という行為は、量るよりも面白い。そこには、その人の性格、知性、生活リズム、自己認識のクセ、ときには社会的背景まで透けて見えるのです。

将来体重計がもっと進化したら「体重、最近どうです?」と先に訊いてくれるのかもしれません。そして答え方と測定値のズレから、測定者の心理まで見通す機能がつくのではないでしょうか。

とはいえ、きょとんとした顔も、遠くを見る目も、たぶん体重計には検知できないでしょう。


ドライクリーニングと、水洗い

ドライクリーニングは1825年、パリの染み抜き職人がテレピン油をこぼした偶然から始まったとされます。(作り話という説もあり)しかしその30年余り後、1859年にアメリカ・ペンシルベニアでドレークが商業的石油採掘に成功したことで、ガソリン・灯油・ベンゼンといった石油由来の留分が大量かつ安価に供給されるようになり、19世紀後半、ドライクリーニングは一気に普及しました。つまりこの産業は、石油文明の副産物として育ったのです。(初期は爆発事故が多かったようです)

20世紀には洗浄力に優れる塩素系のパーク(テトラクロロエチレン)が主流となります。ただしパークもナフサ由来のエチレンを塩素化したもので、結局は石油化学製品。2016年までは高級服のタグに「ドライクリーニング(セキユ系)」なる表示がありました。これはシルクや繊細な装飾を傷めるパークを避けるためのものでした。

そのパークも、いまや過去の溶剤です。発がん性、土壌・地下水汚染、大気汚染防止法等の規制強化で、現在のクリーニング店の主流は石油系(改良型炭化水素系)に置き換わっています。

しかし需要側で不可逆の変化が進みます。リモートワーク、ノーネクタイ、アスレジャー——一度カジュアル化を知った社会は、スーツの世界には戻りません。クリーニング店の事業所数はピーク時から半減しました。今回原油危機が起きても「不足!不足!」と叫ばれないのは、ニーズの低下によるものかもしれません。

時代はカジュアル化に向かいますが、ウールやシルクを大切に着続けたい気持ちは残ります。今でも高級クリーニング店では、繊細な水洗いなどのメニューがあります。店舗が需要とコストをどうバランスさせるのか、注視が必要です。ご家庭用にもハイベックプレミアムドライのような製品があります。石油系・塩素系溶剤を使わず家庭の洗濯機、あるいは手洗いで大切なドライマーク衣類を洗える水溶性洗剤です。


ピーナツの濡れ衣

濡れピーナツ(茹で落花生)の話ではありません。

「先生、私、もうピーナツは一生食べられないんでしょうか」

72歳の女性が、診察室の椅子に座るなり真剣な顔でそう言いました。前の晩、ジム仲間がくれた小袋のミックスナッツは食べないでしまった、とのこと。食べる気満々ではありませんか。

「あなたは秦野でしたね」

伊勢原と秦野、隣り合っているのにピーナツの消費量はだいぶ違うように思います。「茹で落花生食べますか?」でYesならそれは秦野の人です。

彼女は3年前に憩室炎を一度やっています。その時にどこかで「ナッツや種は憩室に詰まるから一生避けなさい」と聞いたらしいのです。誰に聞いたのかは本人も覚えていません。出どころ不明のまま、妙に強い説得力を持って患者さんの記憶に定着する——よくあることです。

私は彼女に、まずひとつ数字を出しました。80歳を超えると、7割以上の人が大腸に憩室を持っています。つまり憩室があること自体は、白髪やシミと同じで、長く生きた証のようなものです。問題はそのうち炎症を起こす人ですが、これが4パーセントほど。さらにそのうち厄介な経過をたどるのがその中の15%(つまり、0.6%)。彼女が一度炎症を起こしたのは事実ですが、世界中の憩室持ちの大半は、生涯何事もなく過ごしています。ナッツの話が本当なら80歳以上の7割はナッツ禁止です。ナンセンスでしょう。みんなマグネシウム不足で大変なことになります。

「じゃあ、ピーナツの話は嘘?」と彼女は何か気づいたようでした。

ここが今日の本題です。トウモロコシ、ナッツ、種子類を避けよ、という長年の指導は、実は科学的な裏付けがほとんどありません。2008年の男性を対象にした前向き研究でも、最近の女性を対象にした報告でも、これらの食品と憩室炎の発症リスクのあいだに関連は見つかりませんでした。小さな種が憩室に物理的に「詰まる」という絵は、人々を納得させやすい仮説です。しかし実際には起きていないらしいのです。濡れ衣です。ピーナツには謝罪を要求する権利があると思います。

むしろ勧められているのは、地中海食のような、野菜と魚とオリーブオイル中心の、大腸の炎症を鎮める方向の食事です。くるみ、アーモンド、ヘーゼルナッツはその地中海食で「毎日ひとつかみ」とされています。隠していた小袋は、戸棚から出して良いのです。

ただ、と私は続けました。ここで安心しきってもらっても困ります。憩室炎には再発という性質があるのです。1度やった人の中で、1年以内に再発するのが8%、10年で20%。2度目をやった人は、その先さらに起こしやすくなります。彼女の「もう二度とごめんだ」という気持ちは、実は正しいのです。

では何が再発を左右するのか。ここでキーになるのは、ナッツではなく、もっと地味な顔ぶれです。喫煙、お酒の飲みすぎ、痛み止め——特にNSAIDsの常用、肥満、運動不足。彼女は煙草を吸わず、お酒も付き合い程度で、ときどき膝が痛むときにロキソニンを飲むくらいだと言います。その「ときどき」を、できれば「めったに」にしましょう、と話しました。心臓の病気でアスピリンを飲んでいる人、それは続けていい。ですが念のための痛み止めの常用は、憩室にとってはあまり優しくないのです。

治療の考え方も、ここ数年で変わってきています。昔は憩室炎といえばまず抗菌薬、でした。今は、症状が軽くて全身状態が落ち着いていれば、抗菌薬を必ずしも使いません。重症の人や、免疫を抑える治療を受けている人には、もちろん使います。CT検査も、撮れば安心ではあるけれど、被曝のことを考えると、何でもかんでも撮るものではなくなってきました。医療は、足し算だけでなく引き算も覚えつつあります。

それから、と私はカルテに一行書き足しました。ビタミンD。これが不足していると憩室炎のリスクが上がるという報告があります。彼女は冬のあいだほとんど外に出ないと言うので、一度測りましょう、足りなければ補いましょう、と提案しました。日光とサプリメントが、ナッツより先に気にすべきものだったわけです。

最後に彼女が、少し声を落として聞きました。「実は、姉も同じ病気をしているんです。関係ありますか」大いに関係があります、と答えました。憩室の病気には、はっきりした遺伝的な素因があるのです。一卵性双生児ではとくにそうです。家族にいるなら、それは聞かせてもらえてありがたい情報です。彼女のカルテに、姉のことも書き添えました。


話はここで終わってもよさそうなものですが、現実の診察室はもう少し続きます。

彼女は帰りぎわに、あともう一つ、とためらいながら言いました。「炎症が治まったあとも、ときどきお腹が、しくしくするんです。これは、また悪くなる前触れですか」

これは、よく聞かれます。そして説明しにくい。憩室炎が治ったあとも、45%の人に、腹痛などの症状が断続的に残ることが知られています。腸の過敏さ、動きの変化、腸内細菌の入れ替わり——いくつかの理由が重なっているらしい、というところまでは分かっています。急に強くなる痛みや、ずっと続く痛みでなければ、過度に心配しなくていい。つらければ、けいれんを抑える薬や、ごく少量の抗うつ薬で楽になることもあります。

彼女は「再発じゃなかったんですね」と、少し安心したような、でも残念そうな顔をしました。私もまた、その釈然としなさを完全には晴らせません。治った、と言いきれる線をどこに引くかが難しい病気なのです。

戸棚から出されたミックスナッツの小袋を思い浮かべながら、私はその日のカルテを見直していました。ピーナツの濡れ衣は晴らせた。けれど、しくしくする腹の件が半分しか解決できないことに、<宿題>とメモを書いたのでした。


  • 出典:David A. Johnson, MD. “Diverticular Disease Demystified: Myths, Risks, and Modern Care”(Medscape, 2025年7月17日)
  • 憩室関連大腸炎(SCAD)の話はまた次回に

牛に翼——W・ユージン・スミスと自己救済の問い

「虎に翼」は、韓非子の言葉で「鬼に金棒」と同じ意味ですが「牛に翼」は、W・ユージン・スミスの言葉 “I AM AN OX WITH BIRD SIZE WINGS AND YET I KNOW TO FLY” からの引用です。「私は牛、翼は小さく飛べませんが、飛ぶ方法は知っています」と自分の実直さ、意思を表した言葉のようです。

W・ユージン・スミスは水俣病を世界に発信した ”MINAMATA” で有名な写真家です。

早くから写真の世界で頭角を表した彼が好んだのはフォトエッセイというスタイルです。文章も書く。契約していたZiff DavisやLIFE誌とは編集方針を巡って数度衝突しています。


I. 出発前——意気揚々と準備

学生を連れて東京都写真美術館へ。現在そこで「W.ユージン・スミスとニューヨークロフトの時代」なる展示会が行われています。6月7日まで。

母親の影響で写真をはじめ、若い頃から頭角を表すものの、成功し始めた頃に恐慌により名士であった父を自殺で失います。それを彼は取材中に偶然知り、大きなショックを受けました。それが彼の人生に影を落としています。

Ziff Davis出版、LIFE誌などと契約し、太平洋戦争の最初はプロパガンダ写真、やがて敵味方関係のないスナップを写真に収め始めます。沖縄で爆発に巻き込まれ、生涯癒えることのない傷を負い療養しますが、彼に医療従事者の写真が多いのはそのためだと思われます。彼を写した映像の周りに牛乳が多いのは口が開かず流動食を多く食べていたからです。

療養後は「田舎医者(1948)」「スペインの街(1951)」「助産師(1951)」「慈悲の人シュバイツァー(1954)」をエッセイを交えて発表。

W. Eugene Smith’s ‘Country Doctor’: Revisiting a Landmark Photo Essay

‘Spanish Village’: Behind W. Eugene Smith’s ‘Guardia Civil,’ 1950

W. Eugene Smith: LIFE Magazine 1951 Photo Essay, ‘Nurse Midwife’

Albert Schweitzer in Africa: The Story Behind a Classic Photo Essay

彼はフォトグラファーであり、エッセイストでもある。しかも視線がプロパガンダ寄りではなく、完璧主義でもあるため、しばしば編集と衝突しています。シュバイツァーでも衝突したようです。

シュバイツァーは1952年ノーベル賞を取り、スミスが取材した時期(1953-1954)、その名声は絶頂と言えました。しかし現地でのスミスはシュバイツァーの中に家父長的・権威主義的なものを見出し、写真と記事の言葉でそれを示唆したいと考えました。しかしLIFEはそれを受け入れません。当時の通念ではシュバイツァーは生ける聖人とされており、通念が勝った形です。スミスの視点は1970年以後のポストコロニアル的考えを先取りし、白人がトップとしてアフリカの地を厳格にコントロールしていることも伝えようとしたようです。編集部としてはそれを認めず、さらに、写真数を少なくし雑な編集となりました。それが衝突の決定的な原因となりましたし、アーカイブがないのもそれによります。

LIFEを去った1955年、元LIFEの関係者からの仲介によりピッツバーグ市から招聘され、写真集を出版する予定が立てられました。制作期間は半年、100枚前後の写真集。しかし彼はロケハンにまず半年、その後3年かけて数万枚の写真を撮りました。ピッツバーグのすべての側面を切り取ろうとした彼の作品はしかし、当然暗部もさらけ出します。クライアントからは受け入れられず、印刷品質に彼自身が満足できず、結局彼の全財産をかけたプロジェクトは出版されません。偉大な失敗作と言われ、失意の彼は4人の子供、妻と離れてニューヨークへ行くのです。

彼のニューヨークロフト時代とは何か。

821 6th Ave, New York, NY 10001

ロフトという名前から、最上階あるいは屋根裏の広い空間を想像出来ます。もともとジャズ・ミュージシャンのたまり場であった場所を友人ホール・オーバートン(ピアニスト・作曲家・編曲家)から借受け、ユージン・スミスは生活を始めます。月曜日はマンハッタンのクラブはお休みで、Birdland や Village Vanguard で演奏していた様々なミュージシャンが訪れてセッションをしたのだとか。

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そこで彼は写真家というよりは記録者として現場の音と映像を徹底的に記録しました。その膨大なアーカイブはアリゾナ大学に保存されていて……。

1957年〜1965年のニューヨークロフト時代を予想するに、戦争に従軍したことによる沖縄での負傷、LIFE誌との衝突、そしてその後のピッツバーグでの失敗、それらから経済的に困窮すると共にPTSD的な状況に陥っていたのではないか。それを自己救済したのがロフト時代ではないかと私は考えました。では、ジャーナリズムの極致で傷ついた人間が、どうやって自分を救ったか——それをどう展示しているのか、ワクワクして見に行きました。

結論から言えば過大な期待だったと思います。しかしそれでも良い展示でしたのでご紹介します。


II. ピッツバーグの黒

これは予期しなかった写真の数々でした。工業都市として成長していたピッツバーグ、ここから半年の契約で写真集を依頼された彼がしかし行ったのは膨大なロケハンでした。結局3年かかった仕事は、工場から吐き出される黒煙、プラカードを持った失業者、言い争う議員など、為政者が見せたくない裏側も丸裸にしていました。漆黒の工場写真。印刷では決して表現出来ない黒。市政が撮られたくなかったショット。彼のキャリアでは失敗作と言われていますが、写真そのものは鮮烈です。印刷という媒体の限界は明らかにされてしまったのですが。

依頼主スタイファン・ロラントは、ピッツバーグの200周年記念出版のために、明るい産業発展の物語を求めていました。100枚、3週間、500ドルの前金。しかしスミスが残したのは2万枚以上のネガ、3年を費やし、契約金をはるかに超える私財を投じました。最終的にロラントは、スミスのレイアウトをほとんど採用せずに本を出版しましたが、スミスはその品質を認めず、自ら出版を試み続けました。それは生前ついに完成しません。

彼が見ていたのは、工業都市の繁栄でも貧困でもなく、おそらくピッツバーグそのものなのでしょう。しかし、ひとつの都市を一冊の写真集に収めるという行為の不可能性も明らかにされました。それでも3年やめなかったのは、シュバイツァーなどの仕事で意にそぐわない編集をされてしまう苦い記憶によるものでしょうか。しかしピッツバーグでは自ら消耗してしまいます。


III. ロフトの断片

この展覧会のタイトルにもなっているロフト時代の写真は、膨大なアーカイブの量とは裏腹に、発表されている量があまりにも少ないのです。このため、アリゾナ大学から借りてきているだろう事を期待していました。しかしそうではなく、アリゾナの資料から再構成した壁、音楽の再現に留まっていました。これは大変残念です。

それでも、壁の手書き文字、錆びたロッカーへの落書き、25ドルの未払い督促状、ボードへベタベタと貼られた言葉、雑誌の表紙、あるいは紙くず、などなど、ひとつひとつは魅力的です。彼の聞いていた音楽、そのジャケットを展示、ジミー・ヘンドリックスのアルバムの発売年が間違っていることを開会後に指摘されたのでしょう、テープで修正の痕跡。少し手抜き感を感じたりもしました。

基本的に美術館手持ちのスミスの写真、および周辺の写真家の写真が、並べられていて、もちろんそれらは良い写真だから市場に出たのだろうと思うけれど、そうでないアーカイブが見たかった自分としては残念でした。

ロフトの彼は、シャッターよりも先ずテープレコーダーを回していました。5年間は60000時間ありますが、例えば月曜日に来客が多いとして10000時間、複数のマイクで録音するにせよ、1日あたり10時間程度の録音をしないと、彼が残した4000時間分のテープにはなりません。実際はもっと録音し、少なくとも無音部分は再録音などすることにして4000時間分のテープを残したはずだから、それこそ24時間記録し続けたのでしょう。そしてそれを全部聞き直した研究者はいないはずです。

研究によれば階段の足音、電話の会話、ラジオ、ジャムセッション、自分の独白。研究者が発見した、モンクによる即興の音楽が完成していく様子はJAZZ史において貴重なアーカイブです。

展示されている写真は極端に少ないです。窓からの定点撮影を含め4万枚を超える記録があるはずですが。偶然割れた隙間から撮られた写真は確かに秀逸でしたし、モンクの横顔の影もまた、素晴らしい作品です。

しかし、何を撮るかではなく、撮り続けること自体が日課になり、被写体は選ばれず、ただ通過していくものの記録——これらをネガで良いので見たかったと思います。報道写真家やエッセイストとしての彼が一度死んで、別の何かに変化している時期です。シュバイツァーの記録における衝突、ピッツバーグにおける自己破壊、その後に来たのは——撮ることの目的を失った人間が、むしろ入力ソースを「視るだけでなく聞く」に増やして、持続する。それは彼なりの癒しではなかったのか。

督促状、走り書き、ロッカーの傷。それらがボードに貼ってあったり、壁に文字を刻んだりすることは、「選択し、書き、編集する」を見極める基準が崩れた後に残る、失敗の記録かもしれません。しかし、この時期スミスは、選んで何かをすることをしませんでした。選ばず記録することを自分に許したのではないか。

おそらくこれが救済なのではないか。ロフト時代とは、完璧主義者が、完璧であることをやめた数年間なのでしょう。


IV. ロールシャッハの対岸

ロフト時代の次の部屋は、美術館が収蔵する「ピッツバーグ、ロフト時代、ミナマタ以外の作品」を無秩序に並べただけの作品群で、シュバイツァーが半分を占めているのですが、それらは「Let Truth Be the Prejudice(真実を偏見となせ)」という、W.ユージン・スミスが1971年に自ら企画・構成した大規模な回顧展を意識しているのでしょう。

その中で印象に残ったのはロフト時代に作成されたとされる試験的な左右対称のプリントでした。展示されている中では最大の作品です。自分は思わず検索してしまいました。というのは彼のロフト時代は、米国でブルーノ・クロッパー博士がロールシャッハを確立させていたまさにその時代と重なるのではないか、と思ったからです。河合隼雄が西海岸に留学していた時代、という記憶の断片を引っ張り出しました。

検索してみるとその通りで、ちょうどその時代、麻薬、ヒッピー文化、などとともにロールシャッハも流行しており、彼がそのプリントを作成したのも確実にその影響があったのでしょう。

エロチカの対岸——と名付けられており、つまり、その作品の唯一の情報は名前だけです。そしてその見た目はロールシャッハ図版そのものです。

ロールシャッハ図版は、検査者が被験者に「これは何に見えますか」と問います。答えは被験者の内側を映します。河合隼雄によれば、「その結果は確かだ」とのこと。スミスのプリントには問う者がいませんが、あるいは暗室での彼自身が検査者なのかも知れません。自問自答。

報道写真、あるいはジャーナリズムにおいて、被写体は外部にあり、撮る者と撮られる者の距離を保ちます。一方、沖縄で爆弾に吹き飛ばされ、シュバイツァーで編集に裏切られ、ピッツバーグで自分に裏切られた男にとって、その距離は曖昧です。自画像、セルフポートレイトと似ていますが、彼の作品にはそれは見当たりません。このロールシャッハ図版は、そういう彼のセルフポートレイト、に見えました。

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エロチカという言葉が示すのは、性なのかもしれないし、あるいは性も含む欲望の状態なのかもしれません。対岸とあるので、その反対にある、死とか生まれる前を意味するのでしょうか。それがが無生物のイメージなのか、あるいは再生のイメージなのかはわかりませんが、少なくとも彼は自死を選びませんでした。W.ユージン・スミスがその後のパートナーであるアイリーン・美緒子・スミスと出会った時期と重なります。したがって自分としては、この大きな実験的写真が、MINAMATAにつながる再生の象徴、と感じました。


V. 真実を偏見となせ

W.ユージン・スミスが1948年に書いた写真論の一節に、“Honest—yes. Objective—no.”(誠実であれ。客観的であるな)という有名な言葉があります。現実はレンズを通った時点ですでに偏りを持つ、客観報道など幻想だ——という考え方です。1971年の回顧展タイトル “Let Truth Be the Prejudice”(真実を偏見となせ)もここに連なります。

ジャーナリズムを職業とした男が、ジャーナリズムの客観性神話を否定する。これは矛盾ではなく、むしろ彼の到達点でしょう。シュバイツァーにおいて編集部に「自分の誠実」を捻じ曲げられ、ピッツバーグで「偏りのない網羅的な視点」を試みて自壊し、ロフトで「編集しない」ことに行き着いた人間です。彼が最後に手にしたのは「偏ったまま誠実であること」でした。

MINAMATAにおいてはパートナーである美緒子と一緒に写真を撮りますが、「もう一方が写らないようにする」「同じ角度では撮らない」ことのみ気を遣ったと美緒子氏は語っています。同じ被写体を2人で撮りながら、2つの偏りを並立させる。結果として2つの誠実は、世界に客観的な事実を強く訴えかけました。

次の部屋ではMINAMATAの写真が飾られていますが、美緒子氏の写真は彼女自身が現像したそうで、そこにもW.ユージン・スミスのこだわりが見られました。暗室の魔術師、ともされるスミス氏の技術はしかし今回はクローズアップされてはいません。


VI. 元ネタ

この展示、元ネタはサム・スティーブンソン氏の「The Jazz Loft Project」であろうと思っていたのですが、その通りで氏が監修だそう。

20年スミスのアーカイブを研究して2009年に上梓されたその本は、翻訳されていないがJazz民俗学の原典となりうる記録として絶賛されています。彼は22トンもあったという資料の中で特に録音の重要性に気づきました。

一つは癒しとしての音楽、もうひとつは記憶のインデックスとしての音楽、あるいは音。

スティーブンソン氏はロフトに関係した人物にインタビューした際、その録音を聞かせたそうで、それによりありありと当時の事を思い出せる事に、インタビューされた人々も驚いたようです。

自分は楽しんだけれど、学生はどうだったろうか。

人工知能でアーカイブを網羅的に解析できる時代です。関係者が存命のうちに民俗学としての研究が進んでほしい、そういう感想を持ちました。

牛に鳥の翼。長年愚直に自分の出来ることをし続けて来た彼だからこそ、出る言葉でしょう。とても共感が出来ました。

W.ユージン・スミスの「ロフトの時代」、混沌の実験室から水俣へ。“真実”を立ち上げた写真家の軌跡


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