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免疫学者 / 霊長類学者 / 科学と倫理 / ケンシンへの最初の一歩が未来につながる / がん検診のジレンマ / 旧暦と2033年問題

目次

免疫学者

坂口志文博士が制御性T細胞(Treg)を発見した1995年、免疫学の世界はまだ「ヘルパー」と「サプレッサー」という二つの役割で説明されていました。

私は1993年〜1995年に大学院で主にT細胞を研究しましたからその真っ只中にいたわけですが、ヘルパー、サプレッサーという教科書的な枠組みの中で学んでいたので、Tregという第三の存在をすぐには理解できませんでした。自己を攻撃しない「寛容」という現象は、胸腺という臓器の中で完成するものだと思い込んでいた時代です。

しかし坂口博士は、免疫の制御は末梢でも続いていることを明らかにしました。博士が世界から注目を浴びるようになったのは2003年。2001年にBrunkowとRamsdell(のちのノーベル賞共同受賞者)が、自己免疫を説明する鍵となるFoxp3遺伝子を報告した後のことです。坂口博士は、そのFoxp3が自ら発見したTregの分化と機能を支配していることを証明しました。

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この瞬間、Tregは「概念」から「実体」へと姿を変えました。

ノーベル物理学賞は「予言した人」と「証明した人」に授与される傾向がありますが、坂口博士はその両方を成し遂げた稀有な存在です。二度受賞してもおかしくないほどの仕事をされたと感じます。

Tregの働きは、免疫を「弱める」ことではありません。

それはむしろ、攻撃と防御のバランスを絶妙に保つことにあります。自己への攻撃を抑えつつ、外敵には毅然と対抗する。

この均衡を支える要素として、近年あらためて注目されているのがビタミンDです。

活性型ビタミンD(1,25-ジヒドロキシビタミンD₃)は、Tregを誘導し、Foxp3発現を安定化させる働きがあります。同時に、炎症性のTh17細胞やTh1細胞の過剰な働きを抑える作用も報告されています(PMID: 23994058, PMC6759203)。

つまりビタミンDは、「攻撃」と「寛容」の間で揺れる免疫を静かに整える“微調整因子”なのです。劇的な変化をもたらすわけではありませんが、その穏やかさこそ“寛容”そのもののようで、なくてはならない存在です。

私は患者さんにビタミンDを勧めるとき、「免疫を強くする」ではなく「免疫を整える」と説明します。

通常は1000IU前後から始め、アレルギーのある方にはやや多めにします。アルファカルシドールやエルデカルシトールを使わないのは、保険適用外であることに加え、作用が速く副作用が出やすい印象があるからです。サプリメントではそのような心配がほとんどありません。

この考え方の背景には、「制御こそが成熟した免疫の姿である」という坂口博士の思想があります。

1940年代にはルネ・デュボスが「感染とは防衛の失敗ではなく、平衡の崩壊である」と述べ、免疫を生態系の一現象として捉え直しました。

1970年代には、ニルス・イェルネが「免疫ネットワーク理論」(1984年ノーベル医学生理学賞受賞)を提唱し、抗体やリンパ球が互いに認識し合いながら自己調節を行うという平衡モデルを提示しました。

坂口志文博士のTreg研究は、免疫寛容という抽象的な概念を、細胞という実体のレベルにまで引き下ろした画期的な成果です。

それにもかかわらず、Wikipediaの「獲得免疫系」の中での扱いはまだ小さく、Tregが免疫寛容の中心的概念となった事実を十分に反映していません。

この発見が今後どのように記述され、免疫学史の中で再構成されていくのか――私はその行方に強い関心を持っています。

霊長類学者

霊長類学者は現在の脳科学ブームの先鞭をつけた存在だと思います。

父が「同級生のなんとか君が、京大でサルの研究をしていて」と話題に出すこと結構あり、「どうして医者がサルの研究を?」と思いながら聞き流していたわけですが、テレビなどマスコミにも結構登場していました。久保田競(くぼたきそう)博士です。とてもユーモアのある人だそうです。

彼はサルの前頭葉を研究し「知性とはなんだ」を研究。神経細胞の可塑性(柔軟に組み変わる仕組み)を解明して、その後脳科学ブームが来ました。彼のお弟子さんで有名なのが「脳トレ」の川島隆太教授です。

霊長類学者は一方で、フィールドワークの世界を発達させた存在でもあります。

霊長類学者のジェーン・グドール。

1960年から60年もアフリカでフィールドワークした人で、有名な「草の茎を加工してシロアリを“釣る”チンパンジーの行動」を論文に書き、「人間のみが道具を使う」というホモ・サピエンスの定義的なものの一つを崩しました。

彼女の師匠ルイス・リーキーは、「こうなったら道具の定義を見直すか、ヒトの定義を見直すか、チンパンジーをヒトとして認めるしかないですね」という名言を残しています。(リーキーの弟子では、チンパンジー=ジェーン・グドール、ゴリラ=ダイアン・フォッシー、オランウータン=ビルテ・ガルディカスの3名が有名)

霊長類学者ジェーン・グドールはこうして誕生した

彼女はチンパンジーに名前をつけ観察し、その手法が「擬人化」などと揶揄された時代もあります。

普段猿を擬人化して研究している彼女が、逆に漫画で猿のように風刺されたことがあります。

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この画像は、Gary Larsonの漫画『The Far Side』の一コマ。

2匹のチンパンジーが毛づくろいしています。一方が金髪の毛を見つけて「またブロンドの毛か…。Jane Goodall のあばずれとちょっと“研究”でもしてきたのか?」と皮肉を言う、という内容です。Trampは売春婦の意味です。

この漫画はとても有名なので、彼女の周りの人々の目に入り、怒って抗議文まで新聞社に送ったのだそうです。ところが同時期アフリカにいて、後になってこの漫画を見た彼女自身はとても喜んで、のちにLarsonの著書の序文も書いたというエピソード。

Larson自身、ポップカルチャーの中にいますが環境活動家であり、いがみ合う理由など全くないわけです。このエピソードは緊張を笑いに変えて大きな成果を得たという、成熟した彼らの性質をよく表しています。

The Far Side Comic Strip by Gary Larson - Official Website | TheFarSide.com

消化器系の進化についても霊長類学者は示唆を与えてくれています。

チンパンジーは、自由に手を使いますが基本四つ足で移動します。彼らは大腸が大きく、植物を発酵させて脂肪酸を摂取するという様式です。人間に比べると非効率な消化器系を持っています。一方、二足歩行を獲得した人間の祖先はより広いエリアで活動し、発酵させなくて良い果実、肉、植物の根、などの摂取が可能になりました。チンパンジーにもシロアリを道具で取るなど、効率的な食生活の萌芽が見られ、手を使う=消化器系に影響を与えるらしい、という進化の方向性が確認できます。

高効率な食生活をする=時間が余る=脳の発達に寄与できますし、「肉をわける」など社会性も発達する原因となります。二足歩行と消化器の発達と社会性の獲得を一つのベクトルで考えたことは久しくありませんでした。

こうした霊長類学者のまなざしは、多方向から「人間とは何か」を問いかけ続けています。久保田競先生は昨年6月92歳で、グドール博士は今年10月91歳でお亡くなりになりました。RIP


科学と倫理

20世紀後半から現代にかけて近代科学の発展と共に、人類は「終末観」と「持続倫理」という二つの方向に分かれて進んできたと言えないだろうか。

前者は宗教的想像力の延長にあります。世界を神の計画の一部とみなし、破壊さえも救済へ至る道とする。むろんそう思わないと救われない魂が沢山あったに違いないのでしょう。そこでは地球は「試練の舞台」であり、人間は被造物の頂点に立っています。ですが思想を応用すると、環境破壊や格差拡大をも「神意」として容認する危うさを孕みます。現在生じている様々な摩擦をイメージしながらこの文章を書いています。

これに対し、後者の「持続倫理」はダーウィン以来の進化思想を受け継ぎ、人間を自然の一部として捉え直す立場です。多くの科学者が持続可能性、へ傾きますけれど、ジェーン・グドールの人生は、その倫理的転換の象徴だと言えます。

彼女はチンパンジーの社会・感情・母性を観察し、「人間と動物の連続性」を実証し、また保護活動へと転向しました。つまり科学的事実の探求が、やがて倫理へと変化したと言えるのです。彼女が示したのは「人間は特別ではない」という冷たい科学ではなく、「共に生きる責任」を伴う温かい科学でした。

終末観が超越的救済を求めるのに対し、持続倫理は共在の継続を志向します、困難ではありますが。宗教がしばしば時間の終わりを想定するのに対し、進化は終わりをもたない過程そのものです。終わりはあるかもしれないが、持続を前提とするがゆえに科学者は研究の中に倫理を見出すのだと言えます。

未来とは神が与えるものだ、という視点も無視したくはないのですが、科学者としては、未来は私たちが宇宙の他の生命と共に築くもの──それが、科学から生まれたもっとも静かな祈りでろうというのが自分が生きた1967年からの58年を振り返っての考えです。

最初の一歩、その先の未来

健康診断やがん検診に誘われても、「今回はいいか」と見送ることは誰にでもあります。しかし最新のスウェーデンの研究が示したのは、初回を逃すことが25年後の生死にまで影響しうるという事実でした。

Women who miss first breast cancer screening at ‘40% higher risk’ of dying from the disease

それは「最初の一歩」が、単なる検査の結果以上に、私たちの行動習慣と未来の健康を方向づけるからです。


検診に潜むジレンマ

とはいえ、がん検診にはそれぞれ独自のジレンマがあります。

  • 肺がん検診

    胸部レントゲンは早期発見に限界があります。一方、低線量CTは小さな影まで拾えるものの、無害な結節まで見つけてしまい、不要な検査や治療につながるリスクを抱えます。

  • 胃がん検診

    日本で長年行われてきたバリウム検査は精度に限界があり、内視鏡は有効ですが「苦しい」「怖い」とハードルが高く、受診率を下げる要因になります。

  • 乳がん検診

    マンモグラフィは50歳以上の女性では死亡率低下効果が明確ですが、40歳代では乳腺が濃く精度が落ちる上、「痛いから嫌」と忌避されやすい現実があります。

  • 大腸がん検診

    便潜血検査は安価で簡便にもかかわらず、国保の受診率は2割程度にとどまります。受ける人と受けない人の差は「医療リテラシー」と「最初の行動選択」に大きく依存しています。


共通するのは「初回の力」

こうしたジレンマの中でも共通しているのは、初めて受けるかどうかが、その後の習慣と命に強く関わるという点です。

一度マンモグラフィを受ければ2年後も受けやすくなるし、一度便潜血を提出すれば翌年も抵抗がなくなる。逆に「やらない」と選んだ人は、次の機会にも足が向きません。

これはワクチン接種行動とも重なります。最初に接種した人は翌年も打つが、最初に「不要」と判断した人は、その後も避ける傾向が強いのです。


小さな一歩がつくる流れ

初回の行動は、川の源流の一滴に似ています。わずかな差がやがて大きな流れをつくり、進む方向を変えてしまう。

検診もワクチンも、その「最初の一滴」をどう生み出すかが公衆衛生の鍵になります。

政策としては、検査技術の精度だけでなく、「初回をどう体験してもらうか」「いかにハードルを下げるか」に注力する必要があります。それが将来の死亡率や医療費を左右するのです。


結びに

がん検診には限界も過剰診断のリスクもあります。それでも、「最初に受けるかどうか」がその後の人生を変える――そのことを忘れてはなりません。

小さな行動が大きな未来を動かす。

検診も、ワクチンも、健康習慣も。

私たちが最初に選ぶ一歩には、思っている以上に大きな力が宿っているのです。「年を取ったからそろそろ検診」ではなく、「いま、この一歩から」――それが未来を変える始まりなのです。

追記

とはいえ、「がんは早期発見で」というスローガンには慎重でありたいと思います。過剰診断の問題も残ります。

そして行動を促すことと、行動しなかった人を責めることは違うからです。「どうしてこうなるまで放置したのか」という言葉は、医師としての禁句です。

病気は、発見されたときがその人にとっての治療を開始するのにベストなタイミング――私はそう考えています。「ここからどう生きるか」を共に考えること。それが、本当の意味での“次の一歩”ではないでしょうか。


旧暦と2033年問題

患者さんに月餅をいただいて、はじめて「ああ、中秋の名月だ」と気づきました。日本だけの行事ではないのだな(当たり前ですが)という感想も持ちました。診察室の中にいると、世間の季節感から本当に隔絶されてしまいますね。

月餅|日本の季節を楽しむ暮らし 暦生活

ふと見ると、ポケモンスリープの画面では10月7日が「満月」と表示されています。ところが、実際の中秋の名月は10月6日。

この1日のずれが気になり、人工知能に尋ねてみたところ、「軌道が楕円だからです」と一点張りで、どうも埒が明きません。

たしかに、月の軌道は完全な円ではなく、地球との距離は最短で約35万km、最長で約40万kmと変化します。しかも、月が一度満ち欠けするあいだに、地球自身も太陽のまわりを約30度動くため、月はおよそ390度回ってもとの位置に戻ります。

このため、どの地点からスタートするかによって、満ち欠けにかかる日数が微妙に変わることは理解できます。でもそれが15日が満月とは限らない理由、とすると少し違和感があります。間違ってはないけど。

その違和感の理由は有効数字です。

旧暦では「1日=新月」なので、理論上、15日前後が満月になるはずですが、実際には1日の設定が「観測された新月の瞬間」に基づくため、1日のすごく遅い時間に新月になればちょうど満月になる瞬間は16日になったりすることもあるでしょう。「旧暦の15日が満月ではない」と言われても、「ああ、そういうズレは起こるでしょうね」と感覚的に納得してしまうので、厳密には楕円軌道のために新月から満月までが長くなるがゆえにずれることがあったとしても、なんだか議論が噛み合わないのです。

感覚のずれを克服するため、地球の公転運動や、地球と月の重心の位置、各惑星や衛星の軌道のかたち、さらに月の公転楕円そのものが約9年周期でゆっくり回転していることまで、ずいぶん遠回りしながら勉強する羽目になりました。(つまりここには全く書かない数時間があるということです)時々アマチュアが、プロよりも精度高く天体の動きを計算してみせますが、有効数字やパラメーター設定で、プロ以上の計算ができそう。確かに熱中したくなる世界ではあります。

結局のところ、私は「旧暦とは何か」という原点に立ち返ることになりました。なぜ江戸時代の末にわざわざ天保暦が作られたのか。それは、西洋で作られたグレゴリオ暦に対抗して、1年の長さを「より正確に」定めようとした結果です。

しかし皮肉にも、その精密さゆえに、2033年には暦を決められなくなるという大きな矛盾が生まれました。

旧暦2033年問題について - 国立天文台暦計算室

月と太陽の動きに寄り添いすぎた暦が、ついには自らの首を絞める形になったのです。ルールは、シンプルなほど堅牢。宇宙を見ても、人の制度を見ても、どうやらそれは変わらない真理のようです。