#鵜川医院レター

歳のせい / 老いとはなにか

目次

コミュケーション論「歳のせい」

「先生、目がぼやけて先日眼科に行きましたら、『歳のせいだ』と言われました」
「その先生は、おそらくあなたが想像する意味とは少し違うつもりで、その言葉を使ったのだと思います。『悪い進行性の病気ではないから、心配しすぎなくてよい』という意図で、安心してほしくて口にされたのではないでしょうか。ただし、『歳のせい』という言い方は、患者さんに必ずしも安心をもたらすとは限りません。医療側が便利に使いすぎている表現だと、私は感じます」
「なるほど……」
「いまのお気持ちは、まだ安心しきれてはいないですよね」
「はい、安心していません」

私は外来で、『歳のせい』という言葉はほとんど使いません。患者さんが前向きに受け取りにくいことを知っているからです。一方で、その言葉を“安心のための語彙”として身につけている医師は少なくありません。あくまで導入としてその言葉を使い、その後丁寧に別の説明を重ねても、最後に患者さんの記憶に残るのが『歳のせい』だけ、という副作用も起きがちです。

『歳のせい』を「もう治らない」「これから悪くなる一方だ」という意味に受け取る方は少なくありません。けれども、私が知恵のある大人だと感じてきた人びと――たとえば伯父や父――は、そこで立ち止まり、もう一歩だけ踏み込みます。

「老いとは何か?」 「自分にできることはあるか?」 「なぜ、いま表に出てきたのか?」 「どう折り合いをつけるのか?」

と問い直していくのです。

どんな病気にも「年齢」という因子は確かに存在します。だからこそ『歳のせい』は、本来は浅くも深くも語りうる、多義的な言葉です。多義的であるがゆえに、医療者の仕事は「こちらの意図」を伝えるだけでなく、「相手がどう受け取ったか」を必ず確かめるところまで含まれます。

ここには、専門用語と日常語の違いが横たわっています。日常語は複数の意味を抱えやすい。医療コミュニケーションでは、その多義性が誤解に変わらないよう、「どう受け取りましたか?」という確認が要になります。

「素人にもわかりやすい説明」という標語が語られることがあります。しかし、専門用語を避ければ自動的に伝わる、という発想はやや楽観的です。実際のプロセスは、いつもこうなります。

説明する → どう受け取ったか確認する → 必要に応じて言い換えて再説明する

この往復を、相手の理解と安心が得られるまで続けます。

自分の場合、むしろ医者になって間もない頃のほうがこのコミュニケーションが出来ていました。入院患者さんとは毎日何回も会いますから、そのたびに会話をし、患者と家族の理解を確かめ、安心に努めることが出来た。

外来の空間では限界があり、後日もう一度LINEで確認などの手段を取りますが、語彙の限界を感じてみたり、自分で考えるプロセスも大事ですよ、と諭してみたり、ゴールはありません。

おまけ「老いとはなにか」

キケロ『大カトー・老年について』(De Senectute)は、2000年前、古代ローマの哲人キケロが晩年に著した、老いとその受け止め方に関する珠玉の対話篇です。彼が政界から排除され、カエサルの処罰を恐れながら過ごした61歳の著作です。

本書は、彼自身よりも時代が古い「大カトー(カトー・ケンソリウス)」の口を借り、老年を悲観せず肯定する態度を若者たちに向けて説きます。その内容と現代的意義について、これまでの議論を踏まえてまとめます。


章立てと主要論点

本書は、主に対話形式で展開し、「老年が不幸と思われる四つの理由」を中心に議論します。カトーはこれらの懸念に対して以下のように答えます。

  1. かつてのような社会的活動ができなくなり、役立たずになるのでは? → 「知恵や経験によって社会に貢献し続けることは可能」と説き、若者の指導や助言、知的活動への従事を勧めます。
  2. 肉体や健康の衰えは恐ろしく不幸では? → 「肉体の衰えはいかに生きるかによって受け止め方が変わる」「節度や養生によって十分に豊かな老後は実現できる」と応じます。
  3. 快楽や楽しみが減るのでは? → 「知的楽しみや人間関係の喜びは年齢に関係ない」「節制や趣味、農業や自然とのふれあいなど、老年特有の楽しみがある」と積極的に肯定します。
  4. 死が近づく恐怖が絶えないのでは? → 「死は若者にも同じく訪れるもの」「死後の魂の不滅や安らぎの可能性に思いを馳せれば、恐れることはない」と述べます。

彼の老年観:徳と訓練による個人差

この書でキケロは「老いは一様ではなく、徳や訓練によって穏やかに受け止められる」と強調します。 節度、友愛、規律、知性、心の持ちよう——こうした徳や修養が、老年を惨めなものではなく豊かなものとする最も大切な資本であると説いています。

ラテン語原典では、 「aptissima omnino sunt, Scipio et Laeli, arma senectutis artes exercitationesque virtutum…(老年に対処する最適の武器は諸々の徳の理の習得とその実践にある)」 などと表現されており、体力や快楽だけに依存しない「人生後半の成熟した豊かさ」を支持します。


知性の有無と老年の過ごし方

知的追求や学問・哲学を人生に持たない人の場合はどうか? カトー(キケロ)は「知性や学問がなければ老年の楽しみが乏しくなる」点を認めつつも、必ずしも知的であることが唯一の条件とはしません。日々の習慣や自然とのかかわり、節度や親密な人間関係、おだやかな暮らしといった要素も十分に人生を豊かにしてくれる——つまり「徳」や「心の態度」で誰でも老年を充実したものにできると説きます。


ローマ時代も現代も、「老人」にはある種のレッテルが貼られていた

キケロの著書には「怒りっぽい」などの老人が登場します。このことから、年長者はしばしば疎まれていたと推測できます。儒教では「ひたすら年長者を尊敬せよ」と説いていますが、広く受け入れられる考え方ではなく、だからこそ社会の老人にはある種のレッテルが貼られているのでしょう。

キケロは、「老年の武器は徳の技と鍛錬にある」と書きました。書きましたが容易なことではありません。ではこのレッテルを我々はどう乗り越えていけばいいのでしょうか。

  1. 名づけ直す:

    「歳のせい」を「年齢が関与した可変要因」へと言い換えます。可変である以上、工夫の余地があります。

  2. 穏やかな道を具体的に示す:

    睡眠・運動・栄養・薬の調整など、無理をせず今日から回せる歯車を一つ選びます。できないのに熟睡だけにこだわるのはよろしくない、ということです。

  3. 手放しの技術:

    完全には変えられない部分もありますから、それを「観察」「適応」「ユーモア」の順で扱いましょう。観察して、暮らしを少し変え、笑いに包み込む。若い人々を眺める優しい目、もその一つです。

「歳のせい」は原因の断定ではなく、扱い方の合図です。したがって医師である我々は、診察室でこう結ぶと良いかもしれない――「年齢を気にしないために、何かひとつだけ始めましょうか」