原子核のかたち / バレエ不思議の国のアリス / 帯状疱疹ワクチン / ジョアン・ミロ / 話の脱線を戻す手法
目次
原子核は♡になるか?──かたちと非対称性の物理学
惑星の軌道はほぼほぼ楕円です。これは17世紀初頭、ケプラーによって初めて体系的に示されたことであり、しばしば誤解されるように、それはガリレオの業績ではありません。ケプラーは、プトレマイオス以来の「円と周転円の組合せ」による惑星運動モデルを破棄したコペルニクス地動説に影響され、師匠ティコ・ブラーエの火星観測結果と理論の整合性を追求した結果として、「楕円軌道」という単純にして革新的なモデルに至りました。(それに加えてレンズも進歩させた)
工学の曙文庫 世界を変えた書物 金沢工業大学ライブラリーセンター
ケプラーの書物と、コペルニクス・ケプラー説を支持したガリレオの書物は1822年まで200年以上教皇庁により禁書とされていたのですから、なかなか宗教も頭が硬い。ただ、私はそのキリスト教の学校で、軌道が楕円であることでどれだけ惑星モデルがシンプルに出来るのか、を中学時代に教わりました。実に感動的で、ガリレオの興奮を追体験できたのは良い思い出です。
さて話題をミクロの世界に移しましょう。仮に太陽を原子核、惑星を原子に置き換えて立体に展開した場合、物質の安定など真円のわけがないのではないか。X軸、Y軸、Z軸どこから見ても楕円になるのではないか?私は漠然と感覚的に思います。原子核の中の粒子の重さはそれぞれ違うわけだし。
ただ、「長きに渡り原子核は真円、あるいはラグビーボール型だと思われていた」みたいな書き方をするライターがいます。本当に皆信じていた?それは事実と異なるのではないか、と思って調べてみました。
まず最近理研などから発表された報道資料を見ると、ボーア以来ずっとラグビーボール型だと信じられていた、と書いてあります。そして教科書が書き換わる、というような表現までされています。ものすごく大げさ。このようなシミュレーションで教科書が書き換わることはありませんし、そもそも常識でもなく、議論がずっとなされていた問題なのです。
この3軸非対称に関しては論文の著者の一人である大塚孝治氏らによる先行研究がかなりたくさん見つかります。それを辿ると、ボーアらと同時期に原子核は3軸非対称だろうと考えていた物理学者がいたことがわかります。しかし彼らのモデルは観測結果とあわない。むしろボーアらのモデルが観測とだいたい合うから採用されていたのです。詳細な観測結果が蓄積され、理想的な解決法が出てくるまで待とう、というのが物理学者全体のスタンスだったろうと想像は出来ます。決して「それが真実だと信じていた」わけではありません。その一人が大塚氏。
大塚氏はずっと3軸非対称に関する論文を書いており、以下の記事もその一つです。これは科学ライターによる文章でややニュアンスが異なりますね。
東大、数十年来の謎だった原子核のいびつな変形の発現機構の謎を解明
さて、3軸非対称をアーモンド型と表現するのは自分には違和感がありました。アーモンドはそもそも楕円ですらなく、横から見れば卵型ではないか。非楕円型を言葉として持ち込んでしまうことは、洋ナシ型変形(pear-shaped nuclei):これはラジウム224で発見された、CP対称性の乱れを説明するのでは?という別のトピックス:と混同しやすく、大変混乱することになってしまい、よろしくありません。
全然別の、原子核の形に関する展開があります。さきほど自分は「楕円になるのが当然だという感覚」と書いたのですが、驚くべきことに洋ナシ型の原子核が観測された、という論文があるのです。この論文は理論云々ではなく、事実が観測されたので、Natureという権威ある雑誌に2013年掲載されました。すると理論上はバナナやピラミッドの形すら予想されている、と書いてあるではないですか!
そもそも自分の感覚が間違っていたのですが、調べると理由はすぐにわかります。
自分の感覚では粒子のエネルギーは変化しないままくるくる回転します。この状態ですと軌道は対象性を保つため、四極子変形(quadrupole deformation)と呼ばれる形以上には変形しないようです。3軸非対称もこの枠組みに入ります。しかし粒子には「対称性の破れ」という性質があって、陽子や中性子が特定の数になると八極子変形(octupole deformation)と呼ばれる枠組みに入る形で安定することがあるらしい。この八極子変形に洋ナシ型とかバナナ型が入るのです。自分の調べた研究の歴史は以下のようでした。

原子核は、かつては完璧な球形だと考えられていました。けれども1952年、ボーア=モッテルソン模型(この業績で1975年にノーベル物理学賞を受賞)が登場すると、原子核はラグビーボールのように潰れたり伸びたりする「変形体」として描かれるようになります。さらに1970〜1980年代には、こうした四極子変形を超えて、左右非対称に歪んだ「バナナ型」あるいは「梨型」と呼ばれる、より奇妙な形状への関心が高まりました。これは専門的には「八極子変形」と呼ばれ、核内の陽子や中性子の配置が、鏡に映したような対称性を破ることで出現します。
この非対称な変形は、特定の陽子数や中性子数、たとえば陽子数 Z = 88(ラジウム)や Z = 90(トリウム)、中性子数 N = 134、136などの組み合わせにおいて、エネルギー的に有利な状態として現れます。内部では、非対称な軌道にある核子たちが、捻れあうように運動し、その力学が全体を左右非対称な形に引き伸ばしているのです。
1990年代以降は、CERNのISOLDE施設などにおいて、このような八極子変形をもつ原子核が存在する証拠が実験的に観測されるようになり、核構造の精密測定が飛躍的に進みました。そして2013年、ラジウム224を対象に行われた研究がNature誌に掲載され、八極子変形が現実に存在することがはっきりと示されました。
この奇妙な一見美しくない核構造は、単なる物理的な関心にとどまらず、CP対称性の破れ──つまり、物質と反物質がこの宇宙において非対称である理由──を理解するための鍵として、ホットな研究分野の一つとなっています。南部・小林・益川らが2008年にノーベル賞を受賞した分野と関連しますが、洋ナシ型の構造はCP対称性の破れを検出しやすい形だ、と期待されるそうなのです。
目に見えない原子核のかたちは、私たちがビッグバン以後、なぜこの世界に存在するのかという問いにまで、静かに接続しているのです。
〜ということで、「いや流石に楕円形だと誰も信じてはいないだろう」という自分の感覚は正しく、調べたおかげで、どうしてCERNなどでの実験が大切なの?と理解できるきっかけになりました。
最近は論文をプレス発表することも大切な研究者の仕事になっています。研究機関のプレスリリースを集めたサイトを自分も良く読みます。しかし文脈を理解して読む必要があるという事はいつも感じています。医学の論文の場合さらに国の利益、にまで踏み込んで考える必要があるんです。以前私はこのような論文を抄訳するサイトの監修をしていたのですが、国益などの背景についても注釈を入れていました。今までのレターでも「文脈」は書くようにしていましたが、おそらく今後もこの方針は変わらないと思います。
本来は「♡」に連なる「単純な記号をトポロジー的に理解する」物語を書く前段階として「楕円」の話を書き始めたのですが、「非対称」に面白さをもっていかれてしまいました。
♡
「不思議の国のアリス」考
6月12日、新国立劇場オペラパレスで幕を開けたバレエ《不思議の国のアリス》の初演公演に足を運びました。振付はクリストファー・ウィールドン、脚本はニコラス・ライト。これは、私の中に長らくくすぶっていた「アリス」に対する違和感を見事に晴らす、驚くほど完成度の高い舞台作品でした。

おそらく子どもの頃、一度だけ『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』を読んだきりの私は、物語の細部こそ忘れていたものの、あの夢のような非論理性と、なぜかいつも冷静(笑)なアリス、ふと立ち止まらせる哲学的な問いの気配だけは心に残っていました。大人になってから見ることになった1951年のディズニー映画『ふしぎの国のアリス』は、キャラクター造形こそ印象深いものの、ストーリー全体の流れが見えづらく、どこか腑に落ちないまま記憶の中に沈んでいたのです。
今回の観劇を機にあらためてアニメーションを見返してみると、冒頭に目を引く一文が表示されていました。「ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』および『鏡の国のアリス』に基づく」。これを見て、あれ?と引っかかりを覚え、急いで原書 “Alice’s Adventures in Wonderland & Through the Looking-Glass” を入手(Kindleだと100円!)し、ページをめくってみると、TweedledeeやTweedledumなど、一部のキャラクターは『鏡の国』からの登場。つまり、ディズニー映画は「キャラクター重視」で2作を混合し、物語としては新たに再構成していたのだと理解できました。
それに対して、今回の舞台でライトが手がけた脚本は、基本的に『不思議の国のアリス』の流れに忠実で、しかも破綻のない物語構造へと丁寧に編み直されており、あらためてその構成力に感嘆しました。特筆すべきは、物語の核心とも言える「アイデンティティの揺らぎ」や「言語と論理の転倒」といった要素が、演出・舞台美術・音楽・振付のあらゆる層において巧みに表現されていたこと。しかも、クラシック・バレエという極めて制約の多い様式の中で、これを自然に昇華していた点に、深い芸術的意志を感じました。アリスが少女ではなく“冷静で自立した女性”として描かれる展開も、バレエ向けの改変として違和感なく心に響きました。
そして何より、この舞台におけるアリス役は、“踊る語り手”として全幕にわたりステージに立ち続ける、まさにバレエ・マラソン。しかもイギリスとカナダで初演された2011年の翌年、アリス役の踊りが増やされているようなのです。極めて体力・技術の両面で過酷な役どころゆえ、4人のダンサーによる交代制が採用されているのは非常に納得できることでした。初日は米沢唯さんが登場。軽やかで芯の通った演技と踊りで、知性と好奇心に満ちたアリス像を鮮やかに体現していました。
なお、ロイヤル・バレエのプリンシパル、高田茜さんがこの役を踊る公演はすでに完売。4人の主役すべての舞台を見ることは出来ませんが、それぞれ高い芸術的水準と身体表現だろうことは想像に難くありません。
さてとりわけ会場が沸いたのは、スティーヴン・マックレーの登場でした。ロイヤル・バレエのプリンシパルであり、この作品におけるマッドハッター像の“創造者”とも言える存在。2019年にアキレス腱を損傷し長く舞台から遠ざかっていた彼が、ついにこの役で帰ってきた──その瞬間、空気が一変し、場内は万雷の拍手に包まれました。(などと書いていますが、あとで調べて知ったことです。素晴らしい雰囲気を持つダンサー)
また、クイーン・オブ・ハート役を演じた木村優里さんは、圧倒的な存在感と演技力で観客を引き込み、“怪演”という言葉を使いたくなるような説得力を放っていました。そして、身体能力が問われる“イモ虫”の役に今回初めて挑んだ水井駿介さんも、しなやかで技巧的な踊りで観る者を魅了。いずれも、この舞台における身体表現の可能性を押し広げていました。

個人的な喜びとしては、幼少期を存じ上げている石山蓮さんが、ファーストアーティストとして舞台に立っていたこと。日本人離れしたプロポーションと舞台映えする佇まいは、これからのさらなる活躍を予感させてやみません。
音楽面も非常に充実しており、指揮は初演以来この作品を支え続けてきたデヴィッド・ブリスキン氏。彼のタクトが織りなす音楽、特に打楽器が多用されるそれは、幻想的な舞台装置やダンサーたちの動きと一体化し、観客を“ワンダーランド”へと導いてくれました。
終演後のカーテンコールは、15分以上にも及び、観客の惜しみない拍手が、この作品への賞賛と感謝を表していました。
しばらくは余韻が冷めず、結局ふたたびルイス・キャロルの原作を読み返している最中です。幼い頃には見過ごしていた言葉の妙、視点の転倒、そしてその背後にある哲学的な問い(また原作のみにある教育批判)──今なら、それらをもっと深く、素直に受け取れるような気がしています。
「私はもう打ちましたよ」──帯状疱疹ワクチンと行動変容の話
水痘(みずぼうそう)は、英語で chickenpox と呼ばれるウイルス性の感染症であり、発熱や全身の小水疱を伴うつらい経過をたどります。しかしながら、小児における重症例や死亡例が比較的少ないことから、かつてはワクチン導入の優先度が低く、日本においても定期接種化が他のワクチンに比べて遅れ(2014年~)ました。その結果、現在でもワクチン未接種の小児の多くが自然感染を経験し、成人期に未罹患のまま発症すると、より重篤な経過をたどることが少なくありません。
さらに問題なのは、水痘ウイルス(正確には水痘・帯状疱疹ウイルス〔varicella-zoster virus, VZV〕)は一度感染すると、完全には体内から排除されず、神経節に潜伏するという性質をもっている点です。この性質は単純ヘルペスウイルスとも共通しています。そして免疫力が低下した際に、潜伏していたVZVが再活性化し、帯状疱疹(herpes zoster) として発症することになります。これは激しい神経痛を伴うこともあり、高齢者や免疫不全者にとっては深刻な合併症を引き起こすことがあります。
したがって、小児においては水痘の一次感染を予防するために水痘ワクチンの接種が強く推奨されます。また、すでにVZVに感染した既往のある成人に対しては、再活性化を防ぐ目的で帯状疱疹ワクチンの接種が推奨されます。このたび定期接種化したように、公衆衛生的観点からも重要な対策とされています。
日本国内では「一般財団法人阪大微生物病研究会(BIKEN)」が唯一の水痘ワクチン製造元であり、田辺三菱製薬との合弁により2017年5月に設立された株式会社BIKENが製造を担っています。現在国内で用いられている乾燥弱毒生水痘ワクチン「ビケン」はこの会社の製品です。
同社はインフルエンザワクチンも製造しています。インフルエンザ予防接種を受けた際には「KMB」「第一三共」「生研」「ビケン」などの表記を確認することで、製造元が判明します。みなさんはどのメーカーのワクチン接種を受けましたか?
ビケンの水痘ワクチンは1986年に発売されましたが大変良く効きます。海外の水痘ワクチンとは異なり、単独で帯状疱疹の予防効果をも有する点が特筆されます。欧米では帯状疱疹予防のために高力価の*Zostavax(*ゾスタバックス)が別途開発されましたが、日本では2016年にビケン製水痘ワクチンが公知申請により、帯状疱疹予防にも使用可能となりました。
その後2020年、GSK社よりアジュバント添加の不活化ワクチンShingrix(シングリックス)が上市され、従来のZostavaxに比して高い有効性を示したため、現在ではシングリックスが世界的な主流となっています。Zostavaxは免疫低下患者に使用できないという制約もあり、各国で販売を終了する動きが広がっています。
このような背景のもと、日本国内では現在「ビケン」と「シングリックス」の二種類が帯状疱疹予防の選択肢となっています。
2016年以降、筆者自身も帯状疱疹ワクチンの意義を啓発すべく取り組んできましたが、現実には接種率の向上には困難が伴います。一部の医師がワクチン不要論を口にすることも障壁の一因であり、また「医師による啓蒙」それ自体に反感を覚える人も一定数存在します。努力してきたつもりですが、実際に接種まで至った方は、残念ながら半数に満たなかったと記憶しています。
その反省も踏まえ、最近では「ナッジ(nudge)」と呼ばれる行動経済学的アプローチを意識的に導入しています。これは直接的な説得ではなく、さりげない提示や習慣化を通じて、自発的な行動変容を促す技術です。自らが消耗しない形での啓発が可能であり、長期的に見ると有効な方法と感じています。
たとえば「啓蒙トピック箱」とでも呼べるような内的リストを持ち、日々の診療の中で、ランダムかつ自然に、「今回はこの話をしておこう」というようにテーマを拾い上げています。帯状疱疹ワクチンに限らず、肺炎球菌、RSウイルス、各種健診、ビタミンDの補充など、幅広い領域に応用しています。
実際、患者さんの行動変容はほとんどの場合、「周囲で起きたこと」によって起こります。身近に帯状疱疹を患った人がいれば、ようやく自分事となり、行動に繋がる。自己の経験に基づいた決断が行動の引き金となる傾向が顕著です。つまり、行動変容は交友範囲と相関する傾向があります。したがって公衆衛生施策としての啓蒙は「タイムパフォーマンス」が悪いのです。
行動変容は交友範囲と相関すると書きましたが例外は存在します。それが「読書をする人々」です。少数派ではありますが、彼らは自分の交友圏外で起きた事象からも学びを得て、行動変容を遂げます。インターネットがしばしばエコーチェンバー化する現代において、読書による視野の拡張は貴重な例外性を保ち続けています。
さらに言うとこの読書層には本来的に啓蒙が不要です。啓蒙せずとも自ら変容しようと常に努力している人々は、むしろ啓蒙対象から外れているとも言えます。
お金の問題はどうでしょうか。これもやはり大きい。認めたくはないのですが、変容は「カネ」、この2文字に明らかに影響されます。2023年以降、一部自治体では帯状疱疹ワクチンの公費助成が始まり、そのインパクトは決して小さくありませんでした。「公費で賄われる」という事実によって、自分に関係ある問題として認識が変化し、受診行動が明らかに変わってきています。
その影響か、定期接種が始まった2025年以後、50歳から63歳の層から「帯状疱疹ワクチンって、どうなんですか?」と尋ねられる機会が増えました。
そうしたとき、私は決まって「私はもう接種しましたよ」と語り始めます。高力価のZostavaxが開発された経緯、そして現在主流となりつつあるGSK社のシングリックスの有効性について、自分の判断と体験を交えてナラティブに語ります。帯状疱疹の罹患歴があるか否か、患者と苦しみを共有した経験があるか、は人それぞれ。私の職業柄この疾患は身近であり、罹患頻度、重症度、予後への影響を総合的に考慮すれば、ワクチン接種は十分に「費用対効果に見合う」と判断したため接種した、という私見を述べます。
そもそも「帯状疱疹ワクチンって、どうなんですか?」という質問を投げかける段階で、すでに「ナッジしてほしい」という心理状態にあるわけですから、複雑な理屈を持ち出す必要はありません。
ちなみに現時点では、問屋から出荷制限の連絡もありません。64歳以上で足踏みしている層よりも、むしろ自費で打つ50〜63歳の方が、今は動きが活発です。

ミロとアリスと、わからなさの愉しみ
音楽や図工の時間は、体育と同じくらい大事な時間だと言われています。でも私は、手先が器用だったこともあって、授業をなんとなくこなし、あまり深く考えないまま卒業してしまったことを、今では少し後悔しています。思い返してみると、あの時間が私にとってとても意味のあるものだったと気づかされるからです。
大人になってから、言葉のしくみ(言語学)や神話、哲学、美しさの意味を考える学問(美学)などを学ぶようになり、少しずつわかってきたことがあります。たとえば「詩(ポエム)」は、なぜ子どもにとって大事なのか。「コラージュ」(いろいろな素材を貼って作る絵)は、なぜ教育に役立つのか。それらは、「人はどうやってひとりの人として、また社会の中で、かしこくなっていくのか、関わっていくのか」という大きな問題とつながっているのです。
先日、ジョアン・ミロという芸術家の作品を見に行きました。ミロは、あまり苦労することなく有名になった珍しい芸術家の一人です。多くの芸術家は、貧しさや病気、失敗やコンプレックス(自分に自信がない気持ち)をかかえ、そのエネルギーで作品を生み出しますが、ミロにはそういった影があまり見られません。でもそのかわりに、「学ぶことをやめない姿勢」がありました。それは、詩を描いた作品や、さまざまな素材を組み合わせる「コラージュ」という技法にも表れています。そして、彼の姿勢は今の子どもたちにとっての芸術の学びとつながっているように感じました。
ミロの作品には、♡は残念ながら出てきませんけれど、星や目、はしごや体の一部のような形がよく出てきます。こういう「記号(しるし)」は、見る人に「これはなんだろう?」と考えさせる力があります。なんとなく「こう見てほしい」という決まりがあるようにも見えますが、それがすべてではありません。
正直に言うと、私はミロの作品を「デザインとしてバランスが取れているな」と思いながらも、ちょっと距離を感じています。芸術の世界にくわしい人たちだけが分かるような感じがして、「これには深い意味がある」と説明されても、そこまで読みとらなくてもいいかな、と感じてしまうのです。でも「なんだかよく分からないな」と思うことも、芸術を見るときには大切なのかもしれません。だれとも争わずに、わからないまま静かに考える――そんな時間がもてるのが、芸術のおもしろいところです。
ミロの作品は、当時の心理学(心の動きの学問)と関連付けられて、高く評価されました。作品に現れる形や色は、見る人の心の中にある昔の記憶や感情を呼び起こすような力を持っています。そういう表現は、現代アートにも確かにつながっています。
最近は「STEAM教育」といって、科学・技術・工学・数学に「A=Art(芸術)」を加えた学びが注目されています。これは、「人間の知性は感じる力や作る力とも関係がある」という考え方が広がってきたからです。でも、芸術教育が「頭のいい特別な人だけのもの」と思われているのは少し残念です。本当は、もっと自由に、自分の気もちを形にすることから始めていいはずです。
私は、最近の教育で「表現すること」ばかりが重視され、「感じとること」や「よく見ること」が大切にされていないことが気になっています。絵を見て、すぐに言葉にしなくてもいい。ただ、じっと見つめて、自分の中で考える時間がとても大事です。「これが推し!」とすぐ決めてしまうよりも、「なんだろう?」「まだ分からないな」と思いながらゆっくり味わうことも、豊かな学びなのです。
私は医学生に「名画を見て観察力をきたえる授業」をしていますが、じっくり見ることで「気づかない方が幸せだったこと」に気づいてしまうこともあります。芸術には、そういう深さやこわさもあります。でも、そういう体験こそが、心を育ててくれるのではないかと感じています。
人が人らしくあるというのは、言葉だけでなく、目や耳や手、そして時間の流れなど、いろいろな感覚を使って世界を感じとり、それを自分の中でまとめる力があるからだと思います。そして、その力を育てるのが芸術です。作品をしっかり見て、自分の中で受けとめることで、新しい「考え方」や「見方」が生まれます。
芸術とは、言葉だけでは伝えられない気もちを、人とわかち合うための方法です。そしてそれは、人間を人間たらしめる、とても大切な力のひとつなのです。

方便を使うべき瞬間
主訴:いつもと違う強い心窩部痛と血便
あれ?あなたいつも膵管こんなに太かった?」
「聞いたことないです」
「今回の痛みと関係あるかなあ……あ、食べてきた?」
「すみません、食べてきちゃった」
「大丈夫。食後に膵管拡大するって所見は別の解釈できるし」
「あの、先生、この前講演聞いたんですよね。膵嚢胞の」
「ああ、あなたにもある」
「膵臓がんがね、22.5倍のリスクになるって」
「それ主膵管型でしょ?あなた分枝型だから違うんだけど」
「大丈夫でしょうか」
「大丈夫でしょうよ。他の人々より22.5倍丹念に見てるから」
「そうですよね」
「22.5倍じゃ流石に大げさか。あなた大学でも診てもらってるから、大学の先生が普通の5倍、僕が普通の5倍、掛け算して25倍丁寧、計算あってます?」
「はい」
「じゃあ大丈夫じゃない?」
「そうか笑」
「さて、おそらくなんだけど、今回の症状は急性胃腸炎による下痢、そのせいで虚血性腸炎が起きたんじゃないか。ほら下行結腸がすごく腫れてるじゃん?」
「あ、そこが痛いんです」
「で、今は食べられるぐらい落ち着いて来ていて、1週間ぐらいで治る予定」
「そうですか、ありがとうございます」
「除外診断としては総胆管結石とか膵炎とか消化障害とかかなあ、念の為採血しておいていいですか?」
「お願いします」
今回、患者さんは「心窩部痛と下血」で受診しました。
その原因を探る検査の途中で、まったく別の話題——膵がんリスクの講演内容——を挟んできました。
こうした「脱線」は臨床現場では珍しくありません。
医師がそれに真面目に応答してしまうと、時間がかかりすぎたり、説明の焦点がぼやけたりします。
時間を早送りしたい、脱線を回復させたいなと思った瞬間が「方便」を使うタイミングです。
一見、冗談のように聞こえる掛け算のやりとりや「大丈夫でしょうよ」といった返しは、患者の不安をやわらげつつ、会話をそっと本題へ戻す即興技法なのです。
