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Sinus / ピンピンコロリ / 個の知性 / マイナ救急 / 似て異なる

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Sinus

Sinus を、「ジーヌス」と呼ぶか、「サイナス」と呼ぶか。もちろん、ラテン語を学んでいないと「ジーヌス」とは呼ばないのでしょうが、私が卒業した横浜市立大学では全国でも珍しい「ラテン語で解剖学を学ばせる大学」だったから、横市出身者(しかもある程度古い先生)は当然「ジーヌス」と、少なくとも頭の中では呼ぶでしょう。

横浜市大は3年次で習う第一解剖学の市川厚教授が怖いらしいという事は、大学に入った時に先輩方から聞く事実であって、落第も多い、ラテン語で苦労するとも聞いていたので、大学1年の時に選択してラテン語を学びました。1年間「薔薇」の活用をしているだけ、という幼稚園のような授業ではありましたが、それを教えてくださる先生の佇まいが好きで、割と欠席せずに出ていました。といっても5名ぐらいの授業なので休めないのです。

ラテン語は書き言葉であるからぶっちゃけ発音はどうでも良いそうです。だから「ジーヌス」は、市川厚教授がそう発音していたからそう自分が認識しているだけであってドイツ語訛りが入っている可能性はあります。「シヌス」とか「シーヌス」とか「シーナス」とか呼んでいる人がいるかもしれない。

市川厚教授は本当に怖い先生だったと思うのですが、自分の発する言葉を一言一句聞き逃すなよ、という姿勢を貫いていただけだと感じていました。実際、一言一句無駄がない濃密な授業をするから、「一瞬気を緩めたら理解できない」という事になりがちです。ただ、心底ものを理解している人の喋り方ってありますし、研究を楽しんでいる、極めようと努力している様子も伝わってきましたから、自分は気になりませんでした。「解剖を理解するには発生学をまず理解しないといけない」は金言で、この人生で何千回と思い返した事は間違いありません。(メタ認知するのに極めて重要)

Sinus はもともと「曲がったもの、窪んだもの」という意味です。副鼻腔の構造をミイラ作りで人類は認識していたし、ヒポクラテスやケルススも認識していたけれど、それを sinus と呼んでいたかどうかははっきりとわからず。でも15世紀ヴェザリウスの著書あたりで、はっきりと sinus が解剖学用語として認識され広まっていったと考えられます。日本では主に「洞」という漢字が当てられるのですが、良い翻訳であると思います。副鼻腔含めて以下のような解剖学用語があります。括弧内は英語です。

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ただ、日本の医者はsinusといえばサイナスリズム(正しく心臓が鼓動している)の意味で使うんですけれどね。これは心臓のペースメーカーが洞房結節(sinoatrial node)と呼ぶことに由来します。それはそうとして、こんな感じ。

  1. 上顎洞: Sinus maxillaris (Maxillary sinus)
  2. 前頭洞: Sinus frontalis (Frontal sinus)
  3. 蝶形骨洞: Sinus sphenoidalis (Sphenoid sinus)
  4. 篩骨洞: Sinus ethmoidalis (Ethmoid sinus)
  5. 梨状陥凹: Sinus piriformis (Piriform sinus)

さて米国では、一般の人が sinus という言葉を使った場合、上に書いたような副鼻腔を表すことが多いです。アメリカのCMでは sinus がよく登場します(世界の副鼻腔炎市場の40%が北米)が、日本ではその概念はあまり一般的ではありません。蓄のう症という言葉はありますがほぼ死語です。

当院でのある日、100歳を超える方が頭痛・血圧上昇を訴え来院。その最終診断が副鼻腔炎でした。神経質な方々を除いて高齢者は頭痛を訴える事はもともと少ないし、自分は専門でもないので、なんだろうと考え込みます。でも副鼻腔炎も除外診断として考えますので、診断には辿り着きました。

高齢で片頭痛を心配してくる方がいらっしゃいますが高齢者では血流がそんなにダイナミックに変化しませんから、ほぼほぼ起きません。筋緊張が多いですが、三叉神経痛みたいなのが高齢者では増えてきます。しかし自分が気になるのは、医者向けの「頭痛」の解説文の中に、副鼻腔の痛みがあまり扱われないのです。多いのに。下の文章でも無視されてますよね?

高齢発症頭痛の鑑別 : 今日なに読もう〜病院総合診療医の論文ブログ〜

その理由はなんとなく想像がつきます。

英語のアプリで頭痛の問診をお願いすると、最初の質問が「それはHeadache? Sinus? 」なんです。

Sinus というのは前述しましたが副鼻腔、それが転じて「副鼻腔の痛み」を意味します。あっちの国では一般的な概念なので、最初から当たり前のように分けちゃうんだなあと思います。すなわちあちらでは副鼻腔の痛みを除いた頭痛を、頭痛と認識するようです。

つまりほとんどの人が副鼻腔の痛みはわかり、「頭痛がする」と病院には行かない。その文化で育った人が書く「頭痛」の教科書、その項目には副鼻腔の痛みは入らない。しかしその概念がない日本人は sinus の痛みが区別がつかず、頭が痛いと表現するのかなと思います。だから英語論文においては頭痛の統計の中で副鼻腔炎が非常に少なくなりますし、それを元ネタにして書いた日本の教科書でも頭痛の中に副鼻腔炎が含まれない。ギャップがそこにあるわけです。

ある時、頭痛外来に行って片頭痛と言われたが治らんという人がいて、でも症状聞くと副鼻腔炎です。どうして片頭痛の診断になるのかわかんなかったんですけど、でもそれも最初から行く外来が違ったってことなんでしょう。その頭痛専門医の辞書には副鼻腔炎が書いていないとか。

首よりも上が痛いと感じた時にどこが痛いかな?と考えますよね、その時に日本のみなさんも副鼻腔は意識して良いんじゃないかなと思って書いた文章です。文化的なギャップの話になってしまいましたが。

ピンピンコロリ

ピンピンコロリを勧めているわけではありません。しかしそれに憧れている人が一定数いるという前提でこの会話をお読みください。

その人には尽きない不安があるようだ。欲がいっぱいあるという事だろうか。

「そして今日は何がご不安で」

「私ポックリ死ねるかしら」

「ポックリですかあ、ちょっと言葉を変えてよろしいですか?コロリと死ねるかしら、と言い換えて良い?」

「そうそう、コロリと死ねるかしら」

「ピンピンコロリ、という概念は1983年に提唱された、と言います。ピンピン、が重要です……あなたは……ピンピンコロリが良いですよね?」

「ピンピンコロリ最高です」

「難しいかな……」

「え?」

「あなたはピンピンなの?」

「どういうことでしょうか?」

「元気に溢れて、ちょっと痛いぐらい気づかない鈍感な状態がピンピン」

「いや違うと思います」

「じゃあピンピンコロリは無理じゃん?」

「えーーーー」

「なので、まずはピンピンになろうよ。どうするか」

「どうすれば良いんですか」

「いつもあっちが痛いこっちが痛いっていうの、気づかないようになれば良いのでは?」

「えーーーー」

身も蓋もない会話です。よく父は外来で訴えが多い人に「痛くない痛くない、と自己暗示をかけなさい」と言っていました。

ピンピンコロリの概念、北沢豊治氏が健康長寿体操を考案し1983年、日本体育学会に「ピンピンコロリ(PPK)運動について」と題し発表したのが始まりとのことです。大人用のテープ型紙おむつが発売されたのが同じく1983年です。高齢化元年は1983年と言えるのかもしれませんね。(高分子吸収材が使われた紙おむつが開発され、1984年に赤ちゃん用、大人用、ほぼ同時に発売されています)

しかし、ピンピンコロリという概念は、当初の健康増進体操から離れて世間に普及していきました。世話をかけずに死ぬ、のようなニュアンスになったのです。その考え方は、死生学的に問題だ、差別だ、と考えている学者が多数います。(こちらのピンピンコロリに対する批判的な意見はものすごーく多岐に渡ります)

「コロッと死にたい」という願いは理解できます。苦痛を感じたくないという意味で使う人もいるでしょう。しかしその考えそのものが「死の準備の拒否」とか「死生観の画一化」などを示す可能性があります。したがって「そのお考えはよくわかるのだが、あまり自然体とは言えない」と、どう患者さんに伝えるべきなのか、難しく感じるのです。「全くそのとおりです」と言ってしまうと、死の準備が疎かになってしまう可能性があるからです。

病気は運に左右されやすく、ある程度流れに任せるしかありません。でもその確率を操作することは可能だし、より良い対処の仕方は、いろいろな人々が知恵を絞る事で出てくる。自分もその中の一人として、最大限相手および周囲の人々にとって苦痛の少ない、充実した人生になるよう、外来での診療を提供しているつもりではあります。それをピンピンと呼んで良いならば、ピンピンを目指す部分には特に異存はありません。

でもコロリ、ポックリという言葉にはなんとなしに抵抗がある自分です。苦痛のない死、穏やかな死に相応しい言葉とは思いません。

この言葉、商標登録を調べてみると圧倒的な元祖は「イボコロリ」で、1933年。「アリノスコロリ」が1984年出願で、以後は割合登場しますので、1983年登場の「ピンピンコロリ」自体が社会的インパクトのある、響きの良い言葉であったというのが、普及の理由なのでしょう。

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個の知性をどう育てるべきか

深層学習の概念が登場した時に、自分の脳内の整理方法とあまりにも似ていて親和性がありました。したがって自分を理解するための意味もあって、現在多くの場所で使われるLLM(大規模言語モデル)について勉強してきました。

それは「知性はどう育つんだろう?」という基本的な問いに対する答え探しなのですが、どんなに頑張ったとしても個の知性には限界がある、というのが普遍的な事実です。したがってLLMには敵いません。もちろん個々の知性が向上する未来は可能でしょうが、追いつく事は叶わない。

どうしたら皆が幸せに生きていけるんだろうか。そんな事を悩んでいたらある賢者が「人類はカンニングの技を磨け」と教えてくれました。そうかもしれない。『ザ・カンニング IQ=0』という1980年のフランス映画があります。IQは0になり得ず下らないジョークではありますが、原題は『Les Sous-doués(才能に恵まれない人々)』と言います。どのくらいヒットしたのかわかりませんが、自分が覚えているのですから、テレビで放映などはされたのでしょう。

この映画が象徴的ですが、カンニング、英語ではチート、チーティングと言いますけれど、実際に不正をするかどうかは兎も角として、物語にはしやすい。ネタがすっかり切れた現代では「タイムスリップ」「未来を知っている」そんな題材ばかりになってしまいましたけれど。とはいえ物語の題材としてのカンニングが示唆しているものを書き出すと以下の通りです。これらが我々が磨くべき能力かと思います。

周囲の環境を観察する能力

普段から環境をよく観察し、隠されたヒントやチャンスを見つけ出す力が重要。これは私が以前からずっと学生に言い続けている事です。

情報を整理し圧縮する技術

デジタルノート、マインドマップ、タグ付け、記憶術を駆使する。

調べる技術

情報AIをアシスタントに用いながら、「適切なキーワード」「AND/OR」「分野ごとに信頼できるサイト」「リアルタイム検索(SNS)」「APIやRSS、自動化」などの検索技術を身につける。インターネットでは検索できない情報も多いので、足を運んで経験する。

チームワーク

自分一人では無理な場合はしばしばある。プロジェクト化して他者と一緒に考える。人間が答えてくれるQ&Aサイトや友人への相談も大切。

視覚化ツールを活用

視覚化すると非常に理解が深まるので、PowerBIなどのツールを使って可視化する。イラストが不得意でもAIが可視化してくれる時代になった。

情報の再利用

テンプレートを作ったり、タグを利用して同じ知識はどんどん使い回す。

法律・規範を意識する

AIにはNGワードがあるが、人間にはそれがない分自由度が上がる。ただし犯罪かどうかは意識しておく事。

メタ認知

上記のような蓄積が長く行われた結果として、知識のメタ認知が行われた場合にはどんどんアウトプットする。逆に、他人がメタ化した知識が判定できるようになるので、それは信用せず参考に留めておく。

さて、ここに書かなかった(書けなかった)のが「倫理」に関する項目です。

途中で「チームワーク」の事を書いたわけですが、その範囲を広げていけば行くほど自然と「共生」という考え方になります。範囲を最大限にすればそれは「倫理」と言って良い。

しかしインターネットで世界は広がったかというと、実際には他人への影響が見えないからという理由で、共生の範囲は広がるどころか狭くなるばかり。結果として非常に偏った人生観/反知性的な価値観がSNSには溢れています。

アイン・ランドなどの思想家の影響も大きいと言われていますが、この考えの限界はすでに見えていますから、心地良いからという理由で「狭いインターネット」の風潮に安易に乗らないようにすることも「人の知性」だ。と主張しておきたいです。

「カンニング」を「隣を覗き見る」の意味だと解釈するならば、インターネットで分断されがちな、主義主張の違う人々の考え方を覗き込む、それも人間に重要なスキルとなるのかもしれませんね。

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「マイナ救急☆実証中」

伊勢原市の救急車とすれ違った時に「マイナ救急☆実証中」との表示がありました。 令和6年5月23日から、全国の67消防部で実証事業を開始しておりその一貫です。(総務省発表による) 神奈川県では川崎、横須賀、平塚、茅ヶ崎、逗子、秦野、厚木、伊勢原、葉山が参加しています。

ホーム | マイナンバーカードを活用した実証事業

マイナンバーカードにより、氏名、生年月日のほか、かかりつけ病院、飲んでいる薬がわかる、市民にとってすぐに役立つ活用です。

その一方、落とし穴(英語表現するとミミック〜モンスターの名前でご存じの)がある事に気づきました。

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ある患者さんから「(他院での)薬がなくなるので出してくれ」とのお願いがありました。しかしお薬手帳はなく、マイナンバーカードに紐づけされた服薬履歴にもその情報がありませんでした。

「どういう理由でデータが入力されていないのか……」しばし考えますが、考えたところで事実確認は不可能です。

しょうがないのでその「他院」に電話をするとたしかに飲んでいるとの事でしたが、自分の疑念、その「他院」は本当に保険医療機関なのか?は最後まで解消しませんでした。

そんな事を忘れそうになっていたある日、別の患者さんで病歴を聞いている時に「薬を飲んでいる」というのに、やはりマイナンバーカードに紐づけされた情報がありません。何かの間違いかと何度も確認し、時間ばかりがかかりましたが結局わかりません。そして断片的な情報はあるものの正確な薬名や用量がわかりません。どこの医療機関かを聞いてなんとなくわかりました。医師会に加入せずひっそりと診療している医院でした。

医師会に入っていない事自体は問題ないし気にならないのですが、患者の薬剤情報を、院内処方だからと、保険医療機関にも関わらずきちんと提供しない姿勢には首をかしげてしまいます。

保険医療機関である我々が患者さんを診察した記録は電子情報となって保険組合に毎月送信されています。ところが診療所レベルでは3%の医療機関が電子化を終えていません。(令和5年現在)

電子化しないメリットとして、今までのスタイルを変えなくて良い、監査の目が入りにくい、減点されにくいというものがあります。手書きでレセプトを書けば一定点数以下の薬の名前は書かないことすら許される。レセプトコンピューターを使っていないあるいは医師が高齢である場合に限って、電子化しないことが例外的に認められていますが、薬の名前がわからない事は重大なインシデントを招くことになります。

患者さんが芸能人であるとか政治家であるとか、どうしてもマイナンバーカードには自分の情報を載せたくないけれど保険で診療してほしいみたいなニーズに対して「手書きレセプトで請求をするのであなたの処方内容は誰にもばれません」みたいなクリニックがあってもおかしくないかもしれないなと思いますが。

故意に隠したいケースはともかく、意図せず自分の情報が救急隊に伝わらないとすれば非常に大きな問題です。これはDX出来ない保険医療機関側の問題です。患者さんはこのリスクを回避する目的で通う医療機関を変更したり、スマートフォンやお薬手帳に正しく処方内容を記載(そのような医療機関はお薬手帳に貼るシールはくれません)するなどして自衛する必要があります。

マイナンバーカードは何省が担当か

エストニアは政府を電子化して久しいですが、その背景には「いつ侵略され国がなくなるかわからない」という危機感があります。日本がのんびりだったのはこういう危機感が乏しいからとも言えます。

米国では納税者番号のことをソーシャルセキュリティーナンバー(SSN)と呼びます。決して納税者番号とは呼ばない。そもそもは1935年に生活困窮の人々のための年金を整備するために使われた制度でしたが戦争でお金が必要になったのでしょうか、1943年以後、納税者番号として使われています。

日本でも予定納税だとか源泉徴収だとかは太平洋戦争の時に整備された仕組みです。戦費確保のために確実にお金を徴収する仕組みが発達したのだなと思いますが、それが敗戦後もずっと続いていることは興味深いです。サラリーマンが爆発的に増えてしまい、納税者番号を普及させなくても税収がある程度増えてしまったことはマイナンバーの普及を遅らせた一因かもしれない。

エストニアは経済通信省が国民IDの担当、米国は社会保障省がSSNの担当ですが、双方成り立ちはシンプルです。ところが日本は戸籍があるところに後から国民背番号を導入しようとしたので、総務省と厚労省と国税庁にまたがってしまい複雑です。個人情報保護に至っては経産省も関係します。世界の国々は「国民として登録されたら一意のIDが付与される」のがむしろ普通で、戸籍制度の存在は大きなハードルだったと言えます。

さらに複雑なのはマイナンバー「カード」は個人に配られる「実印」みたいなものだという事です。SSNの場合、番号さえ覚えておけば良いんですが、マイナンバーカードはなくしたら大変で面倒です。

また個人情報の取り扱いについても欧州型よりは米国型に近く、オプトイン/オプトアウトが厳密じゃない。それに懸念を示す人々もいます。

自分自身はマイナンバーカードは便利な仕組みだし、国防とか社会保障を考えた時に不可欠だとも思いますが、カード1枚(しかも期限付き)というのはとても不満です。ただし早晩スマートフォンに入れた状態で色々できるようになるみたいですし、将来には期待しています。

相対性理論を理解するシマエナガの圖

相対性理論を理解するシマエナガの圖

似て異なる

「飛ぶ」に関連して、昆虫がもちろん一番重要で多様な種ではありますが、鳥類も実に多様な進化を遂げている脊椎動物です。哺乳類もコウモリは飛ぶことが出来るんですが、あまり多様な進化を遂げていません。

脊椎動物の内臓が左右対称でない理由が解明されていて、これもすごく面白い仕組みなんですけれど、鳥類は哺乳類と同じ仕組みに従いません。

体の左右非対称性をもたらす繊毛の回転運動、その仕組みを解明

その差が生じる理由はもともと2つあったNodal1、Nodal2遺伝子のうち、哺乳類ではNodal1だけが、鳥類ではNodal2だけが残っているから、と説明されますが詳しい機構の研究はまだこれからです。

哺乳類と鳥類の左右非対称性メカニズムの乖離を説明

表現形は似ているけれど、全く違う原理で、というのが面白いですね。人間の病気も一元的に説明できると良いんですが、そうでもないので非常に頭を悩ませるわけです。

さて今回は、飛ぶ脊椎動物の羽と足(前足と後ろ足に相当)との進化発達は、鳥類と哺乳類では違う規則に従うことがわかった、という研究を紹介します。これはティラノサウルスの手がなんであんなに小さいの?という謎解きの答えです。

飛ぶ脊椎動物として知られる鳥類とコウモリは、見た目こそ似ていますが、その進化の道筋は大きく異なります。コーネル大学の研究者による最新の研究で、鳥とコウモリの羽と足の進化のパターンに大きな違いがあることが明らかになりました。

Evolutionary paths vastly differ for birds, bats

研究チームは、鳥とコウモリの前後の肢がそれぞれ異なる進化を遂げていると予測していました。それぞれが独自の機能に特化するためです。しかし、実際の研究結果は予想に反し、コウモリでは翼と足の進化が密接に連動していることがわかりました。翼の形が変わると、それに応じて足の形も変化するというのです。この進化の「連動性」が、コウモリが鳥ほど多様な生態的ニッチに適応しにくい原因の一つかもしれません。

鳥類では翼と足の進化が独立しているため、さまざまな生態環境に対応できる幅が広がり、その結果、非常に多様な種へと進化してきたと考えられます。飛べなくなっても、生きていけるようになりましたよね?進化の過程で鳥類がどのようにして翼と足を独立して発達させるようになったのか、その時期や詳細なメカニズムについては、今後の研究が待たれます。

さて鳥類といえば恐竜です。恐竜もまた、哺乳類と比較すると前後の肢の違いが顕著です。ティラノサウルスの前肢がなぜあんなに小さいのか、その進化の謎の一端が明らかになって気がします。それは恐竜が短い期間で地球を支配した事とも関係するのかもしれないと思うと、ドキドキしませんか?

ヒトやサルも前足と後足を独自に発達させたことは進化上重要ですが、それでもコウモリ同様に同期してしまっているのであれば、進化のスピードに限界があるかもしれない。その点、もしも鳥類、あるいは恐竜が知能を獲得したら非常に多様な生命が出現して、ちょっとやばいかもと思ったりはします。

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