振り出しに戻る / ループもの / イタヅラ / Eureka! / 野口体操
目次
振り出しに戻る
双六(すごろく)は古代インドの発祥であり、奈良時代にはすでに日本に登場した、と言います。「双六」の文字が示すようにサイコロがゾロ目になることを競うようなゲームだったそう。最初はバックギャモンのように2人で遊ぶものが登場したと言われていて、複数人で遊ぶすごろくの登場は日本では室町時代だそうです。もともとは軍での立身出世のゲームだったらしく戦後に一時廃れていたものが復活して現在に至っています。その中でも「振り出しに戻る」はとても理不尽なルールですよね。誰が考えたのでしょうか。歴史の本があって図書館にあったら読んでみようかと思うのですが、ゲームとしては興醒めなルールです。でも、それが後に登場する文学ジャンル「ループもの」に影響していないとは思えないんですよね……。ということでまずは、ループする会話をご紹介しましょう。
「先生、私は健康診断を受けなきゃですか?」 「お墓はもう作ってあるのですか?」 「すっごい大きいのが作ってあります。立派な2つの石を並べて、、、(詳細に話してくれる)」 「すごいですねー、ところで」 「ところで?」 「健康診断なんですけど」 「はい」 「寿命を見積もるのに役に立たないでもないけど、ぶっちゃけ要らないでしょう?この間も血液見ましたね」 「受けなくて良いですか」 「でも、大先生にかかったら受けなさいって言うでしょう」 「受けたほうが良いですか」 「なぜ大先生は受けなさいって言うのでしょうか、はい!問題です」 「なんでですか」 「降参?あのね『受けたほうが良いですか』と質問するということは、自分じゃ決められないって事でしょう?そういう人は受けたほうが良いっていう考えがあります。大先生はそういう考え方です。正しいなと思う」 「じゃあ、大先生にかからなきゃだめですか」 「僕だと患者さんが自分で判断すべきところ空気を読んでしま色々アドバイスしてしまう。それって患者さんが本当に自分で決定しているのかどうか微妙じゃん」 「じゃあ、大先生にかからなきゃだめですか」 「大先生にかかるって事は、健康診断をするかどうかは自分で決めなきゃだめなんだよ?」 「じゃあ、健康診断はするってことですか」 「でも健康診断は受けたくないんでしょう?もう年だから」 「そうです」 「だったら、受けない、で良いんです。お墓も用意してあるんだし」 「お墓はすごいんですよ、立派な2つの石を並べて、、、(振り出しに戻る)」
ループもの(文学のジャンル)
同じ時間を何度も繰り返す文学や映画などが多くあり、そういうジャンルを俗に「ループもの」と呼びます。
アリストテレスの時代(彼は世界で最初に演劇論を書いたと思われる)にはまだ「ループもの」は当然なく、言及はありません。ただし時間を繰り返す神話はありますし、そういう神話や小説を研究した論文があるかな?と思って”Time Loop”とPubMedで調べると調べ方が悪いらしくてわからない。
かわりに「アルツハイマー病研究は永遠に繰り返すグラウンドホッグデー状態だ」と書いた論文があってそちらに目が行きました。グラウンドホッグってなんだ?と調べるとアナグマの事でした。「グラウンドホッグは2月2日に冬眠から覚めるが、外に出て自分の影を見ると、驚いて巣穴に戻ってしまう」とされています。啓蟄っぽい。これを利用して春の到来時期を占うまつりが各地で行われているんだそうです。占い方ですが、グラウンドホッグが晴天(自分の影を見て引っ込む)場合は「冬はあと6週間は続くだろう」、曇・悪天候(影が見えないので素直に巣穴から出てくる)場合は「春は間近に迫っている」なんだとか。晴天の2月2日、グラウンドホッグデーを舞台にして何度も何度もタイムループを繰り返す男性の姿を、アナグマになぞらえて描いた映画です。日本人には意味が伝わらないので邦題は「恋はデジャ・ブ」となってます。最終的には恋が成就するわけですが、メインは「ループを繰り返す人生では、人のためにと行動している限り精神が破綻しない事をわかりやすく示した映画」だそうです。1993年登場。
この映画、町山智浩氏がニーチェの永劫回帰と絡めて評論し激賞(そういう批評はもともとあってそれを紹介したようです)したらしく、それを聞いてやっとニーチェのいう「超人」が理解できた自分。
「ループもの」に関してはWikipediaが細かいので興味ある人はどうぞ。個人的にこのジャンルと出会ったのは小学生時代(1970年代)に筒井康隆『時をかける少女』を小説で読んだのが最初じゃないかなと思うのですが、この小説の登場は1965年です。以後こういう設定の作品が無数にあるような気がして違和感を全く感じません。英語のWikipediaを読んでも「タイムループは日本のポップカルチャーでとくに普及」と書かれています。自分は時期的に、日本で隆盛を誇ったすごろくの、ゲームとしてはあまりに理不尽なルールとの関連性があるのではないかと思っている。
そういえば自分の夢ってほとんどがタイムループなので、架空のシミュレーションを繰り返して現実のトレーニングのだろうと思います。
イタヅラを、考えること
世の中には色々なハッキングの手法があるのですが、そのクリエイティブな発想を学ぶことは役立つものですから、今回も一つご紹介しておきましょう。
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Eureka!
前回のレターで、仕事ができる人は物事を部分に分解して理解する能力があるみたいなことを書いた気がしますし、一方でホーリズムのように全体にこそ意味があって部分はどーでも良いみたいな考え方もあります。僕自身は学者じゃないもので、「全体あるいは部分なんてどーでもいい話だ、理解できればそれで良くないか」ぐらいの感じなんですが、最近書いている話題によく出てくるので、ついでに河合隼雄も全体とか部分みたいなことは言っている事を思い出したので書き留めておきます。
河合隼雄対話集全8巻を読んだのに、読書記録をみなさんには披露していなかったと思います。8巻も読むとさすがに河合隼雄同じことの繰り返しで飽きちゃって、しかし対談の相手もそんなにユニークな事言ってないし(大江健三郎はすごいと思いましたが)当たり障りのない内容になっているもので、7巻8巻に至っては読書メモすら残ってないんですが。
でも8巻も読むとある程度理解は出来、こういう会話に河合隼雄を引用できるようになります。
「こんにちは」
「こんにちは」
「今日はね、学生さんが隣りにいます」
「はいよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「彼は精神科希望だそうです」
「あら頼もしい」
「だからなんでも質問して良いですよ。何かないですか?」
「良いんですか?精神科の外来で私、薬が変わったんですね。なんだったかしら?眠り薬なんですけど。今お薬手帳を出しますね」
「デエビゴですか?」
「先生超能力ですか?なんでもわかっちゃうんですね」
「最近流行なのでね」
「流行?」
「評判が良いのかな?良く使われていますよ」
「そうなんですね。それがね」
「夢を見るんですね?」
「そうなんですよ。なんでわかるんですか?」
「なんとなくです。夢を見る自分が熟睡しているか不明、ってやつですね」
「そうなんですそうなんです。良くわかりますね」
「わかるんですよ。でもそれは心配しなくて良いやつですよ」
「どうしてですか?」
「それは意味のある眠りなんじゃないかなとね。僕ね、ずっと考えてたんですよ。デエビゴで夢を見ることについてね。結論としては、良いことです。あなた夢を覚えている?」
「覚えてないんです」
「今はね。でもね、覚えるようにして下さい」
「無理ですよ」
「デエビゴ飲んでまだ1日めでしょう?」
「はい」
「1週間頑張ると出来ます」
「それは先生が頭が良いからじゃないですか?」
「僕も夢は覚えてない派なんです。でもね、河合隼雄がね、繰り返し繰り返し本に書くんですよ。覚えろー覚えろーってね。1週間経てば覚えるようになるぞー、ってね。それでしょうがないから自分もやってみた。1週間頑張ったら、確かに覚えていられる」
「えーそうなんですか?」
そーなんですよ、で夢の内容をメモする。あー自分も覚えられるんだなってわかってからやめましたのでまた覚えてませんけど。とにかくメモをしてくださいよ。ていうか、メモをしたとしましょう」
「メモをしたとしましょう」
「河合隼雄は夢分析をするんだ。僕はてきとーですけどね。人の夢をたくさん聞いていると、過去の振り返りっていうのは多いですわね、つらいこともいいことも振り返っている。それが暴露療法になるみたいで、乗り越えていくっていうんですよ。それは人間の成長ですよね。記憶が経験に変わる、みたいなね」
「記憶が経験にねえ」
「たとえばベンゾジアゼピンという抗不安薬を使うことって、辛さを和らげるためのもので、成長させようという治療じゃないでしょう?でもデエビゴはさあ、夢を見ることで、もしかしたら成長に結びつくんじゃねーのって、そう考えたんですよ」
「じゃあ夢を見るのが悪いことじゃないという事ですか?」
「いちおうそういう風に前向きに解釈してみてます。もうちょっと飲んでみたら?」
「そうします」
「ところで学生さんの印象はどうですか?」
「すごく信頼できそうな感じがします。かかりたいです」
「ですって。良かったね」
「恐縮です」
学生さん、いい感じで相槌打っていたので、台詞には登場しませんでしたがちゃんと役割は果たしていました。
河合さんを8巻読んで、自分は「Eureka!」の意味があらためて理解できたんです。「Eureka!」とは「わかった!」「できた!」と理解して喜んだ時の表現ですけれど、それだけじゃない。自分がそう思った時、加えて誰かが「そうだそうだ」とか「すごいね」と言ってくれた時はさらに、強く強く記憶に刻み込まれる。(脳科学的な仮説を述べることも可能だけど、ここでは書きません)
複雑なものの全体が見通せて俯瞰できたときの感動を見逃さないことは大切。河合隼雄は患者さんのインタビューを通して、主に若い人のようですが、彼らの思い悩みを、直接ではなくて夢を通して時間をかけて聞いていきます。そしてあるとき彼らは「わかった!」となるんだそうです。その瞬間が来た時に背中を押してあげると患者さんが自分で悩みを解決していく、みたいな事を書いてます。
森毅(数学者)も、なぜ自分が数学の問題が解けるかは良くわかっていない。「なんとなく全体がぱっとわかる瞬間がある」と言います。河合も「そうだそうだ、僕もそう」と答えていますが、人間誰しもそういう感覚はあるんだと思います。その瞬間が誰かと共有された時大きく人間は成長するんじゃないかと思います。
この「Eureka!」という感覚を人から認めてもらうことは、人間が成長していく時の「ペグ」(登山のとき使う固定器具)みたいなものになり得ると思う。
自分の個人的な体験を書きます。大回転というスポーツの種目がありますがそれの練習をしていたときに、たった一度だけ「完璧に滑ることができた」という感覚を感じたことがありました。自分は競技歴も短かかったし、そのあと間も無く怪我をしたのでその感覚は一度きりなんですが、その滑りをたまたま仲の良い友人が見てくれていて「うまいね」と言ってくれ嬉しかっただけでなくて大きな自信になりました。「自分でできた」ということと「誰かが見てくれていた」がセットになっていたことがとても良かった気がする。その「Eureka!」な感覚は、その後の人生を何度も救ってくれています。
はじめての野口体操
本を読む前からあれこれ考える
イサドラ・ダンカン、山海塾、まあまあ最近では森山未來さんの舞踊、何か共通点があるのではないかしら、ゆらゆらーとしていて。
このざっくりした感覚は誰でも持つのだろうと思いますけれど、舞台衣装のみによるものなのか、あるいはもっと本質的なのか。
ぼけっと日々考えているテーマの一つですが、Amazonのリコメンドで『「野口体操」ふたたび。』という本が出てきて、前書きだけ読みました。知りませんでしたが東京藝大で必修の授業だったそうな。
大学に入った時「なぜ体育が大学4年(医学部は6年ですが)のうち、たった数単位必修なのか?」と不思議でした。強制的に運動をさせて体の感覚を正常に保つためであれば、4年次まであったほうが当然良い。あるいは大学らしいもっと高度なことを教えたいのか。でも大学教員には申し訳ないが高校の体育の授業以下の内容にしか思えず、存在意義に疑問を持ったのです。(全人的な大学教育という意味で強制的に組み込まれていると理解はしているのですが、その本質を大学自身が理解し教えているのかは疑問であった、という意味)では大学ならではの体育とはなんだ。それを長年考えてきたわけです。それが「野口」「必修」「体育」「藝大」「ゆらゆら」「不思議」「山海塾」などの文字が、パパパっと脳に入ってきた時に腑に落ちました。藝大では本来の体育教育を目指した人がいたようだ、と。
野口三千三(のぐちみちぞう)さんは超人的な身体能力を持つ体育教育者として戦中から抜擢され(教員試験の主席だから当然ちゃ当然なんですが)、戦後は教育から離れて舞踊家を志し、そして創作舞踊を体育で教えたら良いんじゃないかと気づいて教育界に帰ってきます。昭和24年に東京藝大に採用されて昭和53年に教授、昭和57年に退官かな。藝大の三奇人と言われていたそうです。ボディビルと関わっていたり、三島由紀夫や、山海塾との関わりもあったと。
その野口三千三の考案した野口体操が「ゆらゆら」「くねくね」し、山海塾を想起させるものでして、体育の達人が至った境地として「なるほどねー」でした。野口のそれは「高校までの体育とは違い、自分で考え体を動かす事を気がつく人には気がついてね、みたいな授業だったのかしら?なるほどーそれなら大学1年の時だけで納得」みたいな感覚です。
本の説明を見る限り野口体操が宗教みたいな取り扱いでちょっと戸惑います。体の動きとしては生物として原始的なものかしらと、最初想像したけれど、本を読んだら全然違っていて笑えました。「関節をおだいじにね」みたいな感じかと想像していたけれど、そうでもない。東京藝大では生徒の精神にポジティブな影響があることは実感されていたそうで、20歳程度の学生の体育能力と自分の身体能力を行き来しつつ発達してきた体操なのでしょう。
勝手に想像をする
『「野口体操」ふたたび。』著者の羽鳥操氏は、野口三千三のDVDの監修もしておられるようでおそらく読んで意味のある本だろうとは思うのですけれど、まずはAIに教えてもらいましょう。こういう内容でした。
- 野口三千三が1960年代に創始し、その理論や動きは後継者によって継承、発展されている。
- 身体と向き合う修行的な側面がある。重力との対話、身体の緩め、呼吸、リズムなどを通して、身体のバランスや調和を目指す。
- 身体を空っぽにし、力を抜いた状態から動きを生み出すことが基本にある。脱力や緩めを重視している。
- 動きの基礎となる基本動作や訓練法があり、長い時間をかけて習得するプロセスが重視されている。
- 舞踏の基礎訓練として野口体操が取り入れられている。特に初期の舞踏集団や山海塾などで活用されていた。
- 動きのイメージや形といった外形的な側面だけでなく、内面から湧き出る動きを大切にしている。
- 人間改革や人間の可能性を引き出すことを目指していた。単なる体操ではなく、精神的な側面も含んでいる。
6.7.を野口が意図していたかどうかともかく、誰でも一生できる、は重要視していただろうとは思いました。そこで同じようなコンセプトが見られる太極拳をAIに聞いてみる。
- 健康増進と心身のバランスを目指す中国の伝統武術である。 呼吸法や動作を通して、身体と精神のバランスを取ることを目的としている。
- ゆっくりとした動作と深い呼吸が特徴的である。 緩やかで滑らかな動きと、呼吸に合わせた動作が基本となっている。
- 武術の動きと中国の民族舞踊の要素を組み合わせている。 太極拳の動きには武術の動作が取り入れられており、また中国の民族舞踊の要素も含まれている。
- リズミカルな動きと音楽に合わせて行うフィットネスの側面もある。 中国風の情緒あふれる音楽に合わせて太極拳を行うことで、フィットネス効果も期待できる。
- 初心者でも無理なく始められる穏やかな動作である。 動作が緩やかで力んでいないため、年配者や初心者でも取り組みやすい。
- 舞踊や演劇など芸術分野でも太極拳の動きが取り入れられている。 優雅で美しい動きから、太極拳は舞踊や演劇の分野でも活用されている。
- 道具として太極剣や太極扇なども使用される。 演武や演舞の際には、剣や扇といった小道具を使用することもある。
だそう(本当かどうかはファクトチェックしてません)で、そこでAIに野口体操と太極拳の関連性を聞いてみるとこう答えてくれました。
野口体操と太極拳は、身体と心のつながり、意識の向上、および内部感覚の発達に共通の焦点を持っています。野口三千三自身も太極拳の影響を受けており、その理論と実践において、太極拳から得た洞察を取り入れています。特に「身体と心は一つ」という考え方は、両者に共通しています。太極拳の柔らかな動きと野口体操の重力を利用した身体操作は、相補的な関係にあると考えられます。
イサドラ・ダンカン、森山未來などなどで検索をかけてその内容をAIに読んでもらい要約を得る、みたいな事を繰り返していきますとだんだん脱線してきます。
全体論や暗黒舞踏
あと、自分が前回のレターで批判した「ホーリズムの人々」が喜びそうな考え方だとは思います。実際、野口体操とホーリズムは相性が良さそうなので、それもAIに質問をしてみます。
ホーリズム(全体論)は、部分よりも全体が先行するという哲学的観点です。個々の部分が単独で存在するのではなく、全体の一部として相互に作用し合うという考え方に基づいています。この視点から野口体操を見た場合、以下のような評論が想定されるかもしれません。
- 全体性への強調 ホーリズム主義者は、野口体操が個々の身体部分を単独で扱うのではなく、全体としての身体の動きやバランスを重視する点を高く評価するでしょう。野口体操では、身体の各部分がどのように連動して動くか、そしてそれが全体の健康や調和にどのように寄与するかが重要視されます。このアプローチは、ホーリズムの核心的な理念と一致します。
- 自己調和と環境との調和 ホーリズムはまた、個人の内面的調和だけでなく、その人が属する環境や社会との調和も重要視します。野口体操の実践が個人の自己認識を深め、ストレスの軽減や精神的な平穏を促すことは、この全体的な調和の追求に貢献していると見なされるでしょう。この体操が提供する心身の統合は、ホーリズムが目指す全体的な健康観と相通じる部分があります。
- 教育と癒しの手法としての野口体操 ホーリズム主義者にとって、教育や癒しのアプローチは単に情報を伝達したり、特定の症状を治療することだけでなく、人の全人格的な成長と発展を促すものであるべきです。野口体操が身体の自然な動きを通じて自己発見や自己超越を促す点で、これは教育や治療のホーリスティックな手法として評価される可能性があります。
- 継続的な実践の価値 野口体操は一過性の治療法やトレーニングプログラムではなく、継続的な実践を通じて深い洞察と健康を得ることを推奨します。ホーリズム主義者はこの長期的なアプローチを支持し、日常生活における持続可能な健康習慣の形成としてこの体操の価値を認識するかもしれません。
総じて、ホーリズム主義者は野口体操の全体的アプローチ、身体と精神の一体感の促進、および個人と環境との調和を重視するその理念を評価し、現代社会における健康と教育の手法として推奨する可能性が高いでしょう。この体操が提供する自然で直感的な身体操作は、人々が自分自身と周囲の世界とのより調和した関係を築くのに役立つとされるでしょう。
だそうでして、野口体操の時間軸の捉え方もホーリズムが喜びそうだというのは自分にはない視点でありがたかったです。
さて山海塾の紹介に「butohを世界に広めた」とありますが、自分は「舞踏」という言葉に意味があるとは思っておりませんでした。butoh(bが文頭にあっても小文字にすべきなのか、わからない)とは「暗黒舞踏」というものだそうです。もともとあった暗黒舞踏が野口と出会って山海塾に、という流れ。
「暗黒舞踊によるがに股の発見」「舞踊家の数と舞踏の定義の数は同じ」「舞踏はテクニックよりもいかに人為的ではないか、が評価されがち」「握った手を3分かけて開く」「悲痛なほど緩慢な動き」「不随意の象徴としての痙攣」「偶像破壊的」「けいれんすら人間にとっては自然な動き」など、暗黒舞踏の断面を切り取っていくと、実に興味深いコピーが並びます。
どうしても踊りを治療手段として使いたい人々がいる
ダンスを練習している人がある程度テクニックを得て、気持ちがええなあと感じた時、身体と精神が調和している状態なんだから、これが病気の治療にも使えるんじゃなかろうかと考える人がいるのは不思議ではありません。
フロイトの弟子の一人である W.ライヒ(Wilhelm Reich,1897-1957)によって身体心理療法の基本が創始されましたけれど、彼らは「精神を病むと身体は固くなる」という気づきからマッサージや体操をはじめます。しかしこれは衰退の一途を辿りました。一方で第一次世界大戦後、人々が実存主義を経てそろそろ復活をしようかなという時に登場したモダンダンスがイサドラ・ダンカンの登場により勃興します。これが第二次世界大戦後にダンス・ムーブメントセラピーとして米国で普及して当時薬がなかった統合失調症治療の病棟で一定の効果を挙げ、アメリカ・ダンスセラピー協会が成立し、現在まで続いています。
このような経緯をみると野口体操に精神性が強調されるのも当然の流れかしらとは思います。
さてやっと実際の体操を紹介します
本に紹介されていたのは以下の体操です。
ということで、Youtubeに多く紹介されています。興味ある人は少し真似してみると良い。野口の気づいたことは、子供時代に自然にやっていたことかもしれないし、他のスポーツやダンスにも共通項があるでしょう。そして自分で応用していきなさい、というのが野口のメッセージかな、と思います。などとわかったふりをしてみる。
具体的には生活にちょっとゆらゆら、クネクネを取り入れると良いと思います。自分が連想したのはイチロー選手で、クネクネした動きが怪我を予防したんじゃなかろうかなどと。お相撲さんの股割りはやすらぎの動きそのものです。
天才アスリートが閃いてしまう系の話
さて室伏広治さんも、野口同様に天才アスリートでありつつ、それを言語化しようと努めている人ではあります。大臣やりながら結構論文を書いていてびっくりです。これは先日同級生の柳下修先生(東京医科歯科大学教授で室伏氏といくつかの論文の共著者になっている)から聞きました。彼は世界でトップのアスリートであり、身体の使い方について彼ほど自己理解をしている人は一千万人に1人ぐらいのレベルでしょう。その彼が普段考えていることを言語化することを覚えた、それは柳下が指導したという事も関係するんだと思うのですが、そうなると内から湧き出てくるものがもう止まらないようだ。そんなことを聞きました。