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自由と批判

目次

芸術にトリガー警告は必要か

会田誠という現代美術家がいてグロテスクな作品で有名です。鷹野隆大という写真家がいて男性のヌード作品を発表するそうです。後者を自分は知りませんでした。京都造形芸術大(現・京都芸術大)の公開講座を受けたところ、ゲスト講師である彼らからわいせつ性・性暴力性のある作品を見せられ精神的苦痛を負ったとして、受講した女性が学校法人・瓜生山学園を相手取り、慰謝料など約333万円をもとめた訴訟があります。それ関して東京地裁の伊藤繁裁判長は2020年12月4日、約35万円の支払いを命じ結審。原告、被告ともに控訴しなかったことから、すでに判決は確定しています。

原告の主張は2点。1点はコンテンツ警告がなかったという点、もう1点は退席すると単位は認められないという学校法人の規定が心理的な圧迫になったという点です。

芸術には鑑賞者を驚かせたり戸惑わせる表現があります。R18というようなトリガー警告・コンテンツ警告がありますが、鑑賞者は全員そこそこ耐性がある、オプトインしているという前提です。戸惑わせたり傷を抉るような表現が存在し評価されている作家がいる以上、社会的に意味があるとされているに違いなく学者による議論も当然あります。内容はありふれていますが。

高等(大学)教育にトリガー警告は必要か

コーネル大学で最近生徒側が大学側にコンテンツ警告の義務化を求めたところ即座に却下されたというニュースがあり、上記訴訟を思い出しました。(内容は全然違うわけですが)大学には「言論の自由がある」という論拠によります。(NYT

コーネル大学の2年生が文学の授業中、小説中の性的暴行のシーンで激しく動揺したという事件を受けて学生自治会が「性的暴行、自傷行為、トランスフォビアの暴力」などにつき予めシラバスに警告を表示するよう全会一致で決議し大学に提出したのです。これに対して大学は「大学の学問と調査の自由を侵すもの」と一蹴。分裂が顕となりました。

「大学の自治」とか「学問の自由」は弾圧との戦いでもありましたから、数十年、あるいは数世紀かけてやっと得られた現在の自由は、いかなる場合でも侵されるべきではないという主張が根強いです。大学の指導者側には、気分を害する可能性のある講演者やトピックが制限される風潮に対して非常に強く反発をしている人がいるのです。コーネル大学学長の決定はそれを反映したものです。

その1ヶ月前、スタンフォードで異なる経緯での「大学側の自由を守る声明」が発表されています。トランプ政権下で指名された保守派の裁判所判事の講演を学生がやじで妨害したというものです。判事から助けを求められた副学部長が学生の妨害行為を擁護し(つまり判事が批判されるのはやむを得ないと言って)場を収めたのですが、大学の管理者・教育者として自由を侵害する行為であると批判をされています。「大学では自由を妨害する活動は認められない」とロースクールの学部長がその後主張し、生徒や副学部長のふるまいを批判しました。自分の意見とは違っていても、すべての意見を擁護するのが高等教育であるべき、と。

さかのぼって2014年にシカゴ大学で自由を保証する声明が発表され数十の大学が署名、これをシカゴ宣言と言うそうですが、ほぼ毎年このようなぶつかりあいが大学では起きています。

「トリガー警告」は、ベトナム戦争後の時代に心的外傷後ストレス障害(PTSD)が病気として認識されると共に広がってきました。PTSDとはトラウマ体験を連想させる場所、人、音、匂いにより怒りや不安が生じる現象です。1990年代にはトリガー警告の概念は定着しましたが、#MeeToo 運動はその概念のアップデートを迫っています。

誰にもトラウマ体験があるので、その人の精神は保護されるべきだし、PTSDは治療されるべきで、トリガー警告はトラブルを回避するための一つの手段です。しかし一般社会や高校までならともかく、高等教育機関で義務化することは自由を侵害するというのが大学側の主張ではあります。高等教育では、驚きや不快という感情を生じさせることがあっても、批判的思考能力の開発のために挑戦しければならない場合があるというのです。

各教授がトリガー警告をするかどうかは自由です。実際トリガー警告をする教育者はいます。学生がそれに対して懸念を表明した場合に柔軟に対応する事で課題を完了できるでしょう。シカゴ宣言のお膝元であるシカゴ大学のコナー・ストローベル教授はそのような主張をしていて、今回のコーネル大学の学生自治会の動きにインスピレーションを与えているのです。

「自由」には「批判的思考」が伴う

はっきりしているのは「大学とは高等教育である」「高等教育では自由が保証されるべき」と大学は考えているという事でしょう。高等教育を受ける生徒にはレジリエンスの成長が期待されています。

不快を回避しようとすることは可能で、それを自由と呼ぶ人々もいますが、乗り越えていく学問の自由からは遠ざかるということだ、という文脈も見えます。トリガー警告はPTSDを逆に強化するというような論文を引き合いに出して、ルール化は大学にはそぐわないと主張する人もいます。

自由とは外的束縛や強制がないことですが、自由であるつもりであってもただ空気を読んで影響され他者に迎合している場合が多いので、我々には常に批判的思考をする力が必要だ、と言われます。大学は自分で考える力を育てる場であり、学生がイデオロギー的な活動をすることにも批判の目が向けられる可能性があるのだなあとニュースを読んでいて思いました。

日本のニュースについては学校法人相手の訴訟とは言え公開講座の話であり、受講者には批判的思考の追求や学問の自由というような目的もないでしょうからトリガー警告必須ですね、全然違う話でした。

さて、蛇足になりますが米国の議論を読んで、欧米は「強い個を作る」「個人主義」だなあという思いを持ちました。自分など勉強法を聞かれると「数人で集まる勉強会が一番いい」などと答えるタイプです。河合隼雄さんは、アジア以外における神は一つの存在であって、その影響で「個」が強調されると書いているのでなるほどなと思っています。そしてアカデミアでは個と男性性が一緒くたになっているような印象もあります。

それがどうなのかという議論はさておき、完全なる自由は、批判を共存させる事で成立するという考え方は、理解しておいたほうが良さそうです。「自分勝手にすること」は違うんです。自由とわがままの境界線がこのあたりにありそうです。