なんとなくもやっと/知識の波/抑圧が生んだ文化たち
目次
「なんとなくもやっとしたから来ました」
ある日、高齢の方がウォークインで来院した。
主訴を文章にすると、「なんとなく、もやっとする」である。
これがどれだけ厄介な主訴か、想像がつくだろうか。もし今流行りの自動問診システムにこの人が入力したら、たぶん「経過観察」か、よくて「内科一般」あたりに振り分けられて終わる。バイタルサインは全て正常。すなわち、発熱なし、嘔吐なし、下痢便秘なし。血圧も脈も呼吸も基準値内で収まっている。
しかし、トリアージのため話を聞いてくれた看護師のメモにはこうあった。「おなかとせなかがなんとなく痛い、2日食べていない」。
おなかとせなか、これは臓器を特定しにくい症状だからスルーしたが、私が引っかかったのは次の文章。元気そうな方が、2日も食べていない。 これは何かあるのではないか。
すぐ診察してみたが、圧痛も反跳痛もない。お腹もちゃんと動いている。教科書的な「腹膜炎」の特徴が見いだせない。いつものようにエコーを当てた。1周目、脂肪肝以外は何も見当たらない。センチネルループもキーボードサインもない、大腸の肥厚もない、虫垂も大動脈も問題なし、もちろん腹水はない、圧迫骨折はわからんなあ(この手の漠然とした主訴では圧迫骨折も多いのだ、何も見つからなければ採血した上でMRIを撮っただろう)。……でも、もう1周、とエコーを動かしてみた。そこで見つけた。膵臓の中に、陰がある、ようだ。
陰がはっきり見えることは逆に、浮腫がないことを意味しており、典型的な膵炎とは言えない。症状の原因がこれだとすれば膵癌かもしれない。どちらにせよ答えは一つ、「今日、総合病院へ」。診断までは実質数秒(は嘘だが、自分が手を動かし始めて数分)、しかし病院探しはそれから長い時間を要した……。
DXで解決すべきは医者と患者の会話を書き起こすことでは全然なくて、ひたすらこういう(ひたすら時間のかかる急患の受診先探し)リソース配分問題だ、と20年言っている。災害のときには整備され機能するが、通常リソース配分は「人手で行うにはコストがかかりすぎる」とされ平時にはおろそかになっている分野だ。これがマイナンバーカードで前進しつつあるのが希望で、この方もマイナ利用で正確な診療情報提供をすることは出来た。今回はこの話には触れない。
ここで考えたいのは、僕の手柄話ではなく、「あの主訴を、最近流行のAIはどう拾うのか」という話だ。
医療には「レッドフラッグサイン」という考え方がある。たとえば腰痛で整形外科に通っていた人が、実は骨転移だった——そんな悲劇が起きないよう、腰痛がある場合に、「体重減少」「微熱」「夜間痛」があれば全身を検索しなさい、みたいな経験則だ。どこかの法律で決まっているわけではない。無数の症例と論文から積み上がった「危険の匂い」のリストである。「こういう症状はレッドフラッグだから連絡を」と一言添えてくれる医師は、親切できめ細かいと言える。
ただ、この概念は本来、癌などじわじわ進む病気に使う。急性疾患の、ましてや玄関先のトリアージでは、あまり出番がない。今回のように「急性なのに訴えが漠然としている」患者は、この枠組みでは語れない。
そして高齢者では、この「漠然」は命に関わる。文献が繰り返し警告している——高齢者は重篤な腹部疾患でも、腹膜刺激症状も発熱も白血球増多も欠くことがある¹。「非典型的な呈示こそが、この年代では典型的」だ²。主訴は曖昧で、症状は過少申告され、多くは「なんとなく調子が悪い」としか言わない¹。
では、既存の自動問診システムに足りないものはなにか。
いま多くの自動問診は、症状を選ばせて、それを既存疾患のパターンに当てはめる仕組みだ。よくできている。だが2つの落とし穴がある。
落とし穴①:「訴えの信頼性が低い」ことを、システムが考慮できない。「そんなに痛くない」「我慢できる」——高齢者や認知機能の落ちた人がそう答えたとき、その陰性所見は信じられるのだろうか。僕は患者の訴えにバイアスやぶれがある事は当然考慮するが、機械は言葉通り受け取る。
落とし穴②:「それ自体が危険な、非特異的サイン」を問う設問がない。 「食べていない」は扱いがとても難しい訴えで、ほぼほぼバイアスの塊だし、そこから訴えが横に逸れてしまうと時間の無駄にもなりやすい。だから全員にすべき質問ではない。しかし、高齢者においては食思不振・経口摂取低下は、それ単独で死亡・罹病の独立した予測因子だ³。「加齢だから」と流されがちだが⁴、嘔気も下痢もない急性疾患の経過、という文脈では警告灯になる。ところが問診UIでは、これを”主訴”としては扱わない。「食欲」は常に問診の脇役で、主役の席が用意されていないのだ。
そして——ここが肝心なのだが——既存の問診システムは、そんな自分の弱点をちゃんと自覚している。 曖昧で危なそうな入力に対して、彼らは賢明にも「医療機関を受診してください」と言って、判断をやめてしまう。これは設計としては正しい。誤って「様子見でOK」と言うより、はるかに安全である。
だが、その”降りた先”がどこか、考えてみてほしい。医療機関だ。 問診システムが安全に手を引いてしまう不確実性の高い層が今後もどんどん厚くなる。その構成の主人公である高齢者はおよそ人口の3割で、医療費の6割を使っている。医療機関の問診では「受診してください」というトリアージの答えは、もう使えず、常に生身の人間の観察力に頼ることとなる。今回の「2日食べていない」に引っかかったのが、機械ではなく人間だったのは、偶然ではない。
なお、レッドフラッグサイン自体、既存UIとの相性は悪い。あれは「症状Aを選ぶ→疾患Bを疑う」という直線ではなく、「一見無関係な複数の弱いサインの”組み合わせ”が危険」という構造を持つ上、「神経質な人々の過剰検査につながる」という負の側面を持ってしまう。選択式の単純なアルゴリズムでは、この立体感が表現しきれない。(むしろカルテを自動巡回するAIが自動で警告を出すのが自然で、そういうシステムはすでにある)
救急病院探しにせよ、曖昧な訴えに対する対応にせよ、リソースを使う部位こそDXの恩恵は大きいはずで、急性期トリアージ用のナレッジベースもその一つだろう。この2軸は有効かもしれないと常々考えている。
- 軸A|訴えの信頼性が見積もりにくいケース(認知機能の低下・医療機関への受診回数がもともと少ない(マイナ情報でわかる)・主訴が漠然)→ 陰性所見、をそのまま信じない。(例:腹痛がない、という場合であっても、腹痛を生じる疾患を除外しない)
- 軸B|非特異的だが独立した予後因子(経口摂取低下・脱力・せん妄・転倒・活動性の低下)→ それ自体を精査のトリガーにする。
慢性疾患のレッドフラッグサイン(体重減少・微熱・夜間痛)については先程書いた、カルテのレビューが有効であろうからこれもほとんどの電子カルテで実現してほしいが、主訴が聞き取りづらい系の取り扱いは大事で「アンバーフラッグサイン」(アンバー、は琥珀、黄色、のようなニュアンスです)みたいな別の呼び方を考えてみた。Post-CC OSCE(医学系学生の医療面接試験)で取り扱えないような主訴、疾患が今後はどんどん増えるから、この枠組みの進歩は重要だ。
機械は素晴らしい。そして「危ないと思ったら降りる」その慎重さも正しい。だが、降りた先で受け止める側でリソースを圧迫してしまうのでは残念だ。「元気そうな人が2日食べていないのは、おかしい」——この違和感を、今回は幸い見落とさず処理したが、この勘所が機械でスムーズに解決出来れば超高齢化社会もなんとかなるのでは、というような希望を持っている。
参考文献
- Bambach, Kimberly, and Katherine Buck. “Atypical Presentations of Critical Illness in Older Adults.” SAEM, 16 Aug. 2021.
- Spangler, Ryan et al. “Abdominal emergencies in the geriatric patient.” International journal of emergency medicine vol. 7 43. 21 Oct. 2014, doi:10.1186/s12245-014-0043-2
- Landi, Francesco et al. “Anorexia of Aging: Assessment and Management.” Clinics in geriatric medicine vol. 33,3 (2017): 315-323. doi:10.1016/j.cger.2017.02.004
- Aprahamian, Ivan et al. “Anorexia of aging: An international assessment of healthcare providers’ knowledge and practice gaps.” Journal of cachexia, sarcopenia and muscle vol. 14,6 (2023): 2779-2792. doi:10.1002/jcsm.13355
「知識の波」というページを作りました
普段は査読付き論文を読むことが多いのですが、ときどき「行き止まり」のような、「変化が少なくつまらない」ような感覚に陥ります。また、ファッション、テレビやSNSなどの話題を追いかけるのは、個人的には好みません。出来れば誰も注目しないような情報を収集したいのです。
現代にはそんな表現の場所は少なくなりました。発見もしにくくなっています。それでは全く何もないかというとそうでもなくて、①英語圏ではそこそこ名が通っているが日本でそれをフォローする人々がほとんどいない分野、②査読付き雑誌に載せるのが面倒だけれど、とりあえず書いてみた論文形式の文章(全く意味のないものも多い)、③現在論文として雑誌に投稿し、査読中だけれど、剽窃される事が多い分野で大事な内容なので、自分が一番最初に書きましたということを主張したいがために書いた文章、などはあります。
査読前の論文はプレプリントと呼ばれたりします。③は重要で、医学論文でもNatureやScienceに掲載される前にプレプリントですでに公開されている、という事が多くなっている事実があります。プレプリントはarXivなどという名前のサイトで公開されています。
さて、私が書いた文章は「難しい」と仰る方ばかりなのです。けれど、「難しいのをわからなくてもそのまま読みなさい」と、著名な文学者、科学者、偉人は全員のように言っています。でも例えばタイトルが簡単な言葉だったらどうでしょうか。内容はともかく読みやすく感じるのではないか。
そう思って、①②③の中から、「一般の人がタイトルを見て、あ、面白そう、と感じるかどうか」だけで選び出すという方法を考えました。 具体的には、 ・色々なサイトのRSSを集める。 ・「タイトルが魅力的で平易な言葉で構成されているか」をAIにスコア化してもらう。 ・スコア60点以上、上位30サイトをJSONでリスト化する。 という流れです。
これをClaude Codeに書いてもらいました。Sonnet程度で十分動くものを作ることが出来ます。それをAstroで構築している鵜川医院のサイトにインプリメントすることとしました。
https://ukawaiin.com/knowledge/
まだやっていませんが、これをタイマーで週1回ほど行うように自動化すれば僕は何もしなくて良いことになります。
結果はなかなかに優秀で、普段なら見落とすような文献やサイトばかりです。そういえばTEDも最近見ていないなと思って入れておきました。内容が偏りすぎで、大丈夫かなと心配です。科学系はやはりタイトルが難しいらしく、人文系に寄ってしまう傾向はあるのですが、たとえば韓国系アメリカ人のエド・パーク氏のエッセイ(知識の波 — 2026年07月20日〜コーヒーに狂いながら、世界の都市をよろめき歩く旅)は、これがなかったら読んでいなかったろうと思います。
若い頃バッファローで、父はレストランに行くとたまにビールを注文していた。飲みたいわけではない。アジア人が生来ケチではないことを周囲に示すためだ。
ニューヨークで私は、レジ係の手に少し触れようとあえてする。黒人の客からの「韓国人の店主は絶対に手に触れてくれない」という奇妙な苦情やら「韓国人は儒教の影響で手を触れない文化なのだ」というさらに奇妙な正当化を何かで読んだからだ。それから私は、自分がそんな人間ではないと知ってもらうために、レジ係が韓国人以外のときには手に少し触れようとする。そしてあらゆる肌の色のレジ係たちに、嫌がられている。
どうですか。人種に限らず、「周囲からどう見えるか」という自意識が自身の振る舞いを縛ってしまうタイプの人は確実にいます。僕もそうですし、医師教育の場面では「意識してそうしなさい」と指導します。医師は常に人に見られ、評価される職業ですから。この視点はエッセイにおけるテンプレートと言っても良いぐらいです。
SNSであれば逆に、周囲の目を全く意識していない人々(例えば、静かな特急車中で平然とノートPCを叩く人や、周囲を気にせず化粧をする人など)を批判すればバズります。むしろそればかり、とも言えるでしょう。彼らは良くも悪くも「浮いている」のですが、本人にその自覚はありません。
葛藤のない無自覚な他者を文章にしても深みは生まれにくく、SNSのバズりに定期的に利用され分断を助長するだけ。もちろん批判ばかりをエッセイにする人もいますが、そこに知性を感じるかと言うと、どうも。結局のところ、ある程度理性的を自覚している人々が文章を書く場合に、周囲を意識しすぎて影響を受けてしまう「自分自身の割り切れなさ」を書くしかない。そんな、表現における普遍的なメカニズムのようなものは、世界共通なのだろうと思いました。
批判は深くなりにくく、自省は深く探求しやすい。
この仕組みは分断を助長しているとは思います。政治では特にそうで、本来は自省して変わっていく政治家が理想なのでしょうけれど、批判の応酬が発展した結果こうなっている。
そう書いた矢先のこと。
同じ「知識の波」が別の日に拾ってきたエッセイに違和感を感じた僕は、「自分の見方がおかしいのか」(結局は自省なのですが)といつもの調子で人工知能とやり取りをしていました。結果として「著者に一定のバイアスがかかっていると解釈して問題なさそうだ」と結論して、批評を書くことにしました。The Marginalian の、ニック・ケイヴをめぐるエッセイのことです。
専門や自分が強い分野では「文脈」を知っているので、その論文の真の意味を解説が出来るものの、専門バカになる懸念もあるのであえて専門外のものを読むために作った仕組みです。でも読みはじめて早々、批判的に評価している自分を発見しました——そのこと自体は、この仕組みの成功だと言えます。
さて、たっぷり時間をかけて反論は書きました。書いたものの、やはり浅いなと感じて廃棄しました。イワン・イリイチを批判しなければならないのですよ。重すぎる。シャドウ・ワークなどの言葉を考えた人で過去のレターに登場した思想家でもあるのですが、医療を批判した彼と対峙するのは面倒だ、というのが実感だったのです。対峙せず、眼の前の患者さんに個別に対応するのが、イワン・イリイチへの自分の答えですから。
「知識の波」はこちらのページから。 https://ukawaiin.com/knowledge/
抑圧が生んだ文化たち
トルコ・コーヒーは、2013年にユネスコの無形文化遺産に登録されています。細かく挽いた粉と水、砂糖を小さな鍋に入れ、火にかけてゆっくり泡を立てます。小さなカップに注ぎ、水を添えて出します。人々はコーヒーハウスに集まり、語らい、報せを交わし、本を読みます。もてなし・友情・洗練の象徴として非公式かつ日常的に継承されてきました。飲み干したカップの底に残るコーヒー粉を用いた占いが定着しています。
これが公式サイトによる、行儀のよい説明です。ただ、この歴史からは、都合の悪い部分がきれいに削られています。
首を切る王
17世紀、オスマン帝国のスルタン・ムラト四世は、公の場所でコーヒーを飲むことを禁じました。ムラト四世は11歳で即位し、はじめの数年は母が実権を握っていました。自身が権力を掌握してからは、帝国の秩序を力ずくで立て直したことで知られ、反抗的とみなした重臣を次々に処刑するなどその手法の残忍さでも名を残しました。
その彼が、1633年にコーヒーを飲むことを禁じ、違反者を死罪としました。伝えられるところでは、王は変装して夜のイスタンブールを歩き回り、大剣を抜いて、市中でコーヒーを飲んでいる者をその場で斬り捨てたといいます。
禁じた理由は、はっきりしています。コーヒーハウスに人が集まると自分の不平不満を言うに違いないと考えたからです。王は、この習慣が首都に腐敗と分裂を招いていると信じていました。飲み物そのものではなく、飲み物を中心とした「人の集まる場」を嫌ったのです。念のため、王は酒とタバコも禁令に加えました。人が集まって何かを分かち合うこと、それ自体が標的でした。ちなみにこの王自身は、禁じたはずの3つ、それに加えて阿片をも嗜んでいたと伝えられ、その死因も飲酒によるものだったといわれています。
ところが、抑えつければ、逆のことが起きます。禁令と処刑の脅しにもかかわらず、コーヒーは衰えるどころか、むしろ広まりました。取引は地下に潜り、コーヒーハウスは城壁の外で、こっそり営業を続けました。処刑という厳しい罰則が、かえってコーヒーを、命がけで守る値打ちのあるものに変えてしまったのです。

占いという口実
抑えつけられた人々は、思いがけない工夫を編み出します。
コーヒー占い——トルコ語で「fal」と呼ばれます——の起源に、こんな話が伝わっています。宮殿(ハーレム)の女たちの発明だというのです。スルタンの妻や側室が暮らす、外界から隔てられた一角に閉じ込められた女たちが、退屈しのぎと未来占いのために、コーヒー占いを始めたのだという言い伝えです。ちなみにハーレムは私的な場所の範疇なので、コーヒーは禁止されていません。それでも彼女たちは監視され抑圧されています。ですから飲み終えたカップを片手に、「占い」という名目で、トラブルに巻き込まれることなく、噂話をしたり、あるいは愚痴をこぼしあったというのです。あくまで伝説の域を出ない話ですが、占いという形を使うことであらゆるタブーをかいくぐることが出来る、その営みの性格をよく言い当てています。
トルココーヒーを飲み終えたカップの底には、泥のような澱(おり)が沈みます。その澱に、彼女たちは意味を読み取るという体で語り合いました。カップを逆さにして、澱が描く模様を眺めます。パレイドリア……鳩なら新しい機会、2股に分かれた枝ならいずれ下さねばならない大きな決断、といった具合です。
これは占いの形を借りた、別のものです。私のエコー占いも似ていますね。この占いは、数か月先を言い当てるというより、その人が幸せな状態であることを邪魔する「なにか」を見つけ、解放する営みに近いものでした。そして、悩みを語り合うことを通じて、人と人のあいだに連帯を築く場でもありました。
建前は「占い」、中身は「愚痴」。表立っては言えない辛さを、澱のせいにして口にする。「あなたの悩みはなに?」とは聞けない場所で、「カップにこう出ているけれど」とは言えたのです。占いは、抑えつけられた人々が編み出した、心を通わせるための口実でした。千利休を思い出す人がいるかもしれませんね。
同じ頃、江戸では
同じことが、遠く離れた江戸でも起きていました。
江戸幕府もまた、人々の口を塞ごうとしました。江戸中期以降の出版統制令は、幕府や大名家の話題、政治的な出来事を絵の主題にすることを禁じました。すると、その網をかいくぐる表現が、次々と発達していきました。正面から描けないなら、別のものに見せかければよい。絵師たちは、そうやって言いたいことを絵に忍ばせました。
その代表が、歌川国芳の1枚です。1843年(天保14年)に描いた大判錦絵3枚続の浮世絵『源頼光公舘土蜘作妖怪図』。病に伏せる武将の枕元に、無数の妖怪が湧き出す——一見、ただの怪談仕立ての絵です。ところが当時の人々は、そこに別の意味を読みました。改革で罰せられた人々や、生業を禁じられた人々の恨みが、妖怪の姿を借りて現れている。そう評判になり、この1枚が当たったことで、錦絵に「風刺画」という新しいジャンルが生まれたのです。禁令が、新しい表現を産み落としたといえます。
もうひとつ、「判じ絵」という遊びがあります。絵を並べて言葉を読ませる、ヒエログリフのような絵文字、1種のなぞなぞです。享保の改革で取り締まりが厳しくなり、浮世絵に歌舞伎役者や遊女の名を書き込むことが禁じられたとき、絵師たちは絵の隅に小さな判じ絵を置いて、これは誰を描いたのかがそっと分かるように工夫しました。やがてそれ自体が、庶民の粋な遊びとして広まっていきました。

迂回路のみ、残る
ところでスルタンも江戸幕府も時間には勝てません。その存在は失くなります。
コーヒー占いも、江戸の判じ絵も、始まりは抑圧でした。言葉を奪われた民衆により工夫され生まれた迂回路でした。そして抑圧が消えたあとも、迂回路のほうは残りました。しかも、生まれた事情は徐々に消えていきました。
判じ絵のルーツをたどれば、平安時代の言葉遊びにさかのぼります。役者の名を書くことを禁じられる事で生まれた工夫は、禁令が緩んだあとには、地名を当てる遊びや、年賀状のなぞなぞとして楽しまれるようになりました。もはや誰も、幕府の目を気にしてはいません。ただ、解けると楽しいから続けているのです。そしてインターネット時代になってもその発展は続き、“emoji”は世界共通の言葉になり、IMEで絵文字がすぐに出る日本語を世界中の人々は羨ましがっています。文化の遺伝子としてしっかり息づいているのです。抑圧は忘れ去られ、楽しみだけが残りました。
一方でコーヒー占いも、同じ道をたどりました。今日のトルコの若者は、スマートフォンのアプリでカップの澱を占います。ハーレムの女たちが本音を吐露するために考えた仕掛けは、いつのまにか本当の占いとしてアプリに引き継がれました。昔のような抑圧は、とうに消えているのに、楽しいから続けているのです。
占いも、絵文字も、落語も、生まれた場所には抑圧がありました。抑えつけられた人は、必ず抜け道を作ります。そして面白いことに、抜け道のほうが、それを作らせた圧力よりも長く生き残ります。楽しいからです。カポエイラ、フラメンコ、フラ、グラフィティ、エトセトラエトセトラ。
「恨み」「抑圧」は非常に深い傷を人々に与えます。しかし加害者はいなくなってしまう。その辛い歴史を忘れない事は大事ですが、文化として息づいていくのは、恨みや抑圧ではなく、それらを耐えるために編み出した抜け道や遊びだ、というのは人間がこれだけ発展してきた好ましい性質なのでしょう。そう考えるとゲームやパズルのデザインというのは究極の職業かもしれないなあなどと、思ったりするのです。

